2022全国特別集会~サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週1日~神のエコノミーにおける神の恵み 第1週2日
5月の祈り 第31日
(朝ごとの食物 神のエコノミーにおける神の恵み 第1週2日)
神のエコノミーにおける恵みとは、手順を経た三一の神です
Ⅱコリント13:14
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように。
「恵みとは、三一の神が彼の肉体と成ることにおいて、源としての御父によって、要素としての御子によって、適用としてのその霊によって、信者たちの中へと分与されることです(Ⅱコリント13:14)。恵みの源、恵みの要素、恵みの適用は、神聖な三一の三つのパースンに属しており、わたしたちのすべてとなります(マタイ28:19)」。
主よ、三一の神が手順を経過して、恵みとなったことを感謝します。主よ、神聖な三一がわたしたちの中に分与され、主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとを経験し、享受することができますように。
三一の神が、わたしたちの供給として、わたしたちが受け入れ、享受し、経験する恵みです
信者が経験することでの神のエコノミーにおける恵みとは、手順を経た三一の神です。三一の神は手順を経過しなければ、恵みとなることはできませんでした。神は一ですが、三、すなわち父、子、霊です。御子は御父の具体化また表現であり、その霊は御子の実際また実際化です。御子の中で御父は表現され見られ、御子はその霊として啓示され実際化されます。この三一の神は、ご自身をわたしたちの中へと分与して、恵みとしてわたしたちの分け前となります。それは、わたしたちが彼の神聖な三一の中で、彼をわたしたちのすべてとして享受するためです。……
恵みはイエス・キリストを通して来ました。律法はそれ自身によって来ることができませんでした。ですから、それはわたしたちに与えられたのですが、恵みはイエスと共に来たのです。実は、恵みとはイエスです。イエスが来られたとき、恵みが来ました。これは神性が人性の中にミングリングされて神・人となった三一の神です。そのような方が、わたしたちの供給として、わたしたちが受け入れ、享受し、経験する恵みです。これは主の真の救いです。(「神のエコノミーにおける神の律法と恵み」、第2、3章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第30日
(朝ごとの食物 神のエコノミーにおける神の恵み 第1週1日)
恵みはイエス・キリストを通して来ました
エペソ2:7
それは神が、キリスト・イエスの中で、わたしたちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において展覧するためでした。
「神の恵みは、極めて重要な意義のある事柄です。恵みは、神の新約エコノミーにおいて最大の真理であり、最高の啓示です(ヨハネ1:14, 16-17.ヘブル10:29.Ⅰコリント15:10.ピリピ4:23.啓22:21)。 新約によれば、恵みとは実は、わたしたちの享受のために、神がわたしたちにとって何であるかです(ヨハネ1:16-17.Ⅱコリント12:9)。恵みとは、教理における神ではなく、わたしたちの経験における神です」。
主よ、恵みはイエス・キリストを通して来たことを感謝します。主よ、わたしたちが恵みとしての神ご自身を経験し、享受することができますように。
神がわたしたちによって享受されるとき、それが恵みです
ヨハネによる福音書第1章17節は、恵みはイエス・キリストを通して来たと言います。これは、恵みがパースンのようであることを見せています。恵みの人格化したものは神ご自身です。パウロは、「わたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」(Ⅰコリント15:10)と言ったとき、これを認識していました。パウロにとって、恵みとは生けるパースンでした。パウロにおいて、このパースンが恵みとなり、彼はこの恵みによって労苦しました。ですから、恵みは神ご自身です。
[恵み]は、わたしたちの享受のために、神がわたしたちにとって何であるかです。神がわたしたちによって享受されるとき、それが恵みです。恵みとは、まさにわたしたちの分け前である御子イエス・キリストにおける神であり、それはわたしたちが彼であるすべてを享受するためです。わたしたちは、恵みがわたしたちの享受としての神であるという事実を強調する必要があります。神が、わたしたちが享受するための分け前となるとき、それが恵みです。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(下)、「ローマ人への手紙における結晶の学び」、第19編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第28日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第12週6日)
ダビデの肉の放縦は重大な事であることを警告しています
Ⅱテモテ2:22
ただし、あなたは若い時の欲から逃れなさい.そして純粋な心で主を呼び求める人たちと共に、義、信仰、愛、平和を追い求めなさい。
「わたしたちはみなダビデから、積極的な面についても消極的な面についても学ぶ必要があります。肉の欲はわたしたちを破壊し得る破滅の要素です。もしダビデのような敬虔な人でさえ誘惑され得るとしたら、どうしてわたしたちは逃れることができるでしょうか?(サムエル下11:1-27.参照、Ⅱテモテ2:22.Ⅰコリント6:13,18).わたしたちの霊的な追求の到達にかかわらず、わたしたちのだれもがそのような罪を犯す可能性があるのです」。
主イエスよ、あなたを愛します。主を呼び求める人たちと共に、義、信仰、愛、平和を追い求めさせてください。主よ、わたしたちが肉を放縦する道に行かないように守ってください。
だれもが肉の欲の罪を犯す可能性があることを警告される必要があります。
ダビデは……故意に姦淫を犯しました。キリストの系図の記録の中で、マタイはことさら、「ダビデはウリヤの妻であった者からソロモンを生み」と書きました[マタイ1:6後半]。これはダビデの罪の重大さを示します。わたしたちはダビデから、積極的な面についても消極的な面についても学ぶ必要があります。肉の欲はわたしたちを破壊し得る破滅の要素です。もしダビデのような敬虔な人でさえ誘惑され得るとしたら、わたしたちは逃れることができるでしょうか? (「サムエル記上、下ライフスタディ」、第33編)
すべての聖徒たち、特に若い人たちは、自分の心を探り、心に固い決意をして、決して肉の放縦の道に行かないようにすべきです(士5:15-16)。……わたしたちは言う必要があります、「主イエスよ、あなたを愛します。あなたが必要です。あなたを受け入れます」。こう言うなら、主は…… 霊なるキリストとして、彼はわたしたちをこの時代の汚れから救い、守り、保護してくださいます。それは、わたしたちが得た栄光を保つためです。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第34編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第27日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第12週5日)
ダビデは神に信頼して、試練の中で神の主権にしたがって歩みました
サムエル上13:14
……エホバはすでに彼の心にかなう人をご自身のために捜して、エホバはその人を彼の民の支配者に任命しておられる……。
サムエル上30:6
……しかしダビデは、エホバ・彼の神の中で自分を力づけた。
「ダビデはサムエルを通して神によって選ばれ、油塗られて、イスラエルの王となりました(サムエル上16:1, 12-13)。ダビデはサウルの迫害の下にいたとき、サウルを滅ぼす二度の機会がありましたが、ダビデはこれをしようとしませんでした。それは、サウルが神の油塗られた者であることで、ダビデが神を畏れたからです。このことは、ダビデが神の王国の中で良い秩序を維持したことを示します(サムエル上第24章と第26章.参照、ローマ12:3)」。
主よ、わたしたちがダビデのように、試練の中で神の主権にしたがって歩むことができますように。主よ、わたしたちが自分自身を否んで、神の王国の中で良い秩序を維持することができますように。
神のエコノミーを成就するために真に主に従っているなら、主の臨在があります
サウルが死んだ時、ダビデは喜ばず、むしろサウルの死を報告した者に死刑を宣告し、悲しみの歌を歌ってサウルを極みまで称賛し、引き上げました(サムエル下第1章)。
疑いもなく、ダビデは神の定められた御旨を成就するために、自らのために報復せず、自分自身を否むことに関して多くを学びました。それは、彼が神の心にかなった人であったことに基づいていました(サムエル上13:14前半)。ダビデは神に信頼した人であり、彼のすべての試練の中で神の主権にしたがって歩みました(17:36-37、23:14-16、30:6後半-10)。彼は試練の下にいたとき、神の導きを求めました。彼は神と一であり、神にしたがって振る舞いました。
わたしたちは神のエコノミーを成就するために真に主に従っているなら、確かに主の臨在があります。どんな事においても主がわたしたちと共におられるという内なる感覚がないなら、わたしたちは注意深くなって、自分の道を考慮しなければなりません。……主の回復の中で、わたしたちがどんな事を行なうときにも、主の臨在の感覚に注意しなければなりません。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第19、21編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第26日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第12週4日)
サウルの悲惨な最期は、神のエコノミーと正しい関係になかったことの警告です
サムエル上15:23
反逆は占いの罪に等しく、不従順は偶像礼拝とテラピムに等しいからである。あなたがエホバの言葉を拒絶したので、エホバもあなたを王であることから拒絶された。
「サウルは神によって選ばれ、サムエルによって油塗られてイスラエルの王となりました(サムエル上9:1-2, 17.10:1, 24)。サウルは少なくとも二回、神の言葉に従わず、彼の王職と彼の王国を失いました(サムエル上13:13-14.15:19, 23.28:17-19)」。
主よ、わたしたちが神のエコノミーにあずかり、それと協力する者とならせてください。主よ、わたしたちがサウルの恐るべき最期の記録から警告されて、利己的な自分自身の働きをしないで、神の王国のために働くことができますように。
神の王国の中で仕える者は利己的ではなく、神のエコノミーにあずかりそれと協力します
サウルの悲惨な最期から、わたしたちは神のエコノミーについて多くの事を学ぶことができます。サウルが苦しんだ悲劇は完全に、彼が神のエコノミーと正しい関係になかったことによりました。神は彼のエコノミーを地上で遂行しており、サウルをご自身のエコノミーの中へともたらされました。サウルは神のエコノミーにあずかりそれと協力するのではなく、利己的でした。…… サウルは神の王国を不法に用いて、自分の君主制を建て上げました。……サウルは立てられて王となった後、直ちに王権の思いで満たされており、それはどのようにして自分の子に跡を継がせるかについても含んでいました(サムエル上20:31)。このことで、サウルは極みまで利己的で間違っていました。
サウルの恐るべき最期の記録は、神の王国の中で仕えるすべての者に対する強力な警告です。すなわち、神の王国の中で別の働きをしてはならず、王国の中で何の乱用もしてはならないということです。主の回復の中で、わたしたちは恐れおののき、自分自身の働きのためではなく、常に神の王国のために働いていなければなりません。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第17-19編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第24日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第12週2日)
サムエルは神と共に働いて彼のエコノミーを遂行しました
サムエル上3:10
エホバは来てそばに立ち、これまでの時のように、「サムエルよ!サムエルよ!」と呼ばれた。サムエルは言った、「お話しください.あなたのしもべは聞いております」。
ルカ10:39
……彼女にはマリアという姉妹がいたが、マリアは主の足もとに座って、主の言に聞き入っていた。
「サムエルは、神が与えたサムエルの身分と職務のすべてにおいて、神に対して忠信でした。レビ人として、彼は全生涯、神に仕え、ナジル人として、自分の献身を守りました(サムエル上2:35)。祭司・預言者として、彼は神のために誠実に語り、預言者職を開始し、神聖な啓示において衰退しつつある祭司職を置き換えました。士師として、彼は神に対して忠信であり、民に対して公正であり、士師職を終わらせ、王職をもたらして、時代を変え、神のエコノミーを成就するようにしました」。
主よ、わたしたちはサムエルのように、忠信に神に仕えることができますように。また、マリアのように主の足もとに座って、主の言葉に聞き入っていることができますように。
主の足もとに座って、主の言葉に聞き入り、主のために語ります
サムエルは、神と共に働いて彼のエコノミーを遂行した者として(ヨハネ5:17.Ⅱコリント6:1前半)、エホバの言葉を聞くことによって、エホバの預言者として立てられて、彼のために語りました(サムエル上3:9-10, 20-21)。…… わたしたちは「主の足もとに座って、主の言に聞き入っていた」マリアの模範に従う必要があります(ルカ10:38-42)。 [マリア]は主の「足もとに」座っていました。これは彼女が自分自身をへりくだった地位に置いたことを意味します。へりくだることは神の祝福を受けるための極めて重要な条件です。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられます(Ⅰペテロ5:5)。
彼女は「主の言に聞き入って」いました。主が語る言葉は霊であり命です。主はこの言葉を通して、人にご自身を分与されます。彼女が主の言葉に聞き入っていたことは、主がご自身を彼女に伝達する機会を主に与えました。それによって彼女は主ご自身を得て、彼のようになることができました。彼女は絶えず主ご自身を受けていました。彼女は言葉を聞いただけではなく、主に会っていたのです。……だれでも説教の中の人の声を聞くだけで、その声の背後でキリストに会わないなら、それは残念なことです。(ニー全集、第38巻、第39編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第23日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第12週1日)
祭司職が古びて衰退した時に、神は新しい開始を持たれます
ピリピ3:13-14
兄弟たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません.ただ一つの事、すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ、・・・・・ 目標に向かって追い求めています。
「エリの下で古いアロンの祭司職は古びて衰退したので(サムエル上2:12-30)、神は新しい開始を持って、ご自身のエコノミーを完成することを願いました。わたしたちはみな、腐敗、古さ、生ぬるさ、高ぶりの一切を拒絶し、主に対して空で、開いており、新鮮で、新しく、生き生きとして、若くあるように自分自身を保つ必要があります(啓3:15-22.ルカ18:17.ピリピ3:7-14)」。
主よ、わたしたちが古びて衰退してしまわないように守ってください。どうか主よ、わたしたちが後ろにあるものを忘れて、目標に向かって追い求めることができますように。主よ、わたしたちが生き生きとしていて、新しい経路となることができますように。
主がご自身の方法で進むために、わたしたちは新鮮で、新しい経路となる必要があります
エリは祭司職を軽んじ、自分の二人の邪悪な息子を取り扱うことで怠慢でした(サムエル上2:28-29)。これが彼の歴史の終わりの悲劇を引き起こし、彼が良き地を享受することを終わらせ、神聖な啓示を…神のために語るという祭司職の衰退をもたらしたのです。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第1、19編)
神の意図はそれぞれが新鮮で、新しく、生き生きとしている多くの若者たちを持つことです。わたしたちのだれも、年を取るべきではありません。年を取ることは固定され、定着され、占有されることを意味します。…… わたしたちは常に一日中若く、新しく、更新され、新鮮にされ、生き生きとしているように訓練する必要があります。あなたが若い時だけ、神が入って来てあなたを召し、あなたを選び、あなたを用いて新しいことを行なわせます。わたしたちは、主がわたしたちを通してご自身の漸進的な動きにおいて進む道を主に与える必要があります。主がご自身の方法で進むために、あなたは生き生きとして、新鮮で、新しい経路となることをわたしは望みます。(リー全集、1964年、第1巻(上)、「神のご計画の中の若者」、第1編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第21日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第11週6日)
シュラムの女の享受とアビガイルの苦難の生活を経験します
ヘブル6:19-20
わたしたちが持っているこの望みは、安全で確固とした魂の錨であり、幕の内側に入って行くものです.先駆者イエスは……わたしたちのために幕の内側に入られたのです。
雅6:13
「帰れ、帰れ、シュラムの女よ.……わたしたちはあなたを見たい」。「どうして、あなたがたはシュラムの女を見るのか? 二つの陣営の踊りを見るように」。
「わたしたちはシュラムの女とソロモンのように、象牙の宮殿の中にとどまって、内側では主と交わります。またアビガイルのように、ダビデに従って戦うことによって、また苦難を受けることによって、外側では生活し、働きます(詩45:8.サムエル上25:40-42)。キリストにある信者は、幕の内側、交わりの奥の間から出て来るとき、十字架の道を取り、苦難を受けたイエスに従って行くことができます(ヘブル6:19.10:19-20.13:13)」。
主よ、わたしたちが幕の内側で、復活したキリストとの交わりの中にとどまることができますように。そして主よ、わたしたちの生活の中で十字架の道を取り、苦難を受けたイエスに従って行くことができますように。
シュラムの女の予表は主観的であり、今日のわたしたちの経験のためです
わたしたちが主を信じた時、わたしたちは人からの迫害や嫌がらせに直面したかもしれません。外側で、わたしたちは圧迫されており、痛みがありましたが、内側でわたしたちに栄光を感じさせる力がありました。わたしたちは外側で涙を流したかもしれませんが、内側で喜んでいました。その力、栄光、喜びは復活です。それらは、わたしたちの中のソロモンとしてのキリストです。シュラムの女は将来における栄光化された召会を予表し、また今日、復活の中にある召会を予表します。
シュラムの女の予表は単に将来における客観的なものではありません。彼女は主観的であり、今日のわたしたちの経験のためです。・・・・・ ある日、すべての死んだ聖徒は復活させられ、すべての生きている聖徒は変貌させられ、携え上げられ、わたしたちは完全に復活の中へと入ります。しかしながら、その日が来る前でさえ、わたしたちは復活の中に生きることができます。(「召会の三つの面、第1巻:召会の意義」、第9章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第20日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第11週5日)
クリスチャン生活は、内側の面は、シュラムの女であり、 外側の面はアビガイルによって予表されます
ヘブル10:19-20
こういうわけで、……わたしたちはイエスの血によって、大胆に至聖所へ入ります.それは、彼がわたしたちのために、彼の肉体である幕を通して、一つの新しい生きた道を開設してくださったからです。
「わたしたちのクリスチャン生活には二つの面、すなわち、内側の面と外側の面があります(ヘブル6:19-20.13:13)。内側の面は、シュラムの女によって予表されており、外側の面はアビガイルによって予表されています(雅6:4, 10, 13.ヘブル13:13)。一方で、わたしたちは幕の内側に、すなわち、至聖所の中にいます。もう一方で、わたしたちは都の外、営所の外で、人々の前にいます(ヘブル6:19-20.13:13)。わたしたちは内側で、復活したキリストを享受し、外側でイエスに従って行きます(ヘブル6:19.13:13)」。
主よ、わたしたちのクリスチャン生活を導いてください。内側でシュラムの女のように、復活したキリストを享受させてください。そして、主よ、外側でイエスに従って行き、主のために証しし、主のために働くことができますように。
わたしたちは内側で、復活したキリストを享受し、外側でイエスに従って行きます
わたしたちのクリスチャン生活には二つの面、すなわち、内側の面と外側の面があります。内側の面はシュラムの女にたとえることができ、外側の面はアビガイルにたとえることができます。一方で、わたしたちは幕の内側にいます。もう一方で、わたしたちは都の外、営所の外にいます。一方で、わたしたちは至聖所の中にいます。もう一方で、わたしたちは人々の前にいます。わたしたちは内側で、復活したキリストを享受し、外側でイエスに従って行きます。
わたしたちは朝、部屋で祈っているとき、キリストに触れます。このことはシュラムの女とソロモンが象牙の宮殿の中で共に生活し、交わることにたとえることができます(詩45:8)。わたしたちは奥の間、すなわち、至聖所、ひそかな所で主に触れます。わたしたちは外側の生活において主のために証しし、主のために働くとき、アビガイルが荒野でダビデと共にさすらっているかのようです。(「召会の三つの面、第1巻:召会の意義」、第9章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第19日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第11週4日)
主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい
エペソ6:10-12
最後に、主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい。神のすべての武具を身に着けなさい.悪魔の策略に敵対して立つことができるためです.というのは、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに、天上にいるあの悪の霊の勢力に、敵対するものだからです。
「霊的戦いが必要とされるのは、サタンの意志が神の意志に敵対しているからです(マタイ6:10.7:21.イザヤ14:12-14)。召会として、わたしたちの戦いは、サタン的な意志を服従させ、神の敵を打ち破ることです(啓12:11)。キリストは、長年神の敵に敵対して戦ってきた者と結婚します(啓19:7-9, 11-16)」。
主よ、サタンの意志が神の意志に敵対しているので、霊的な戦いがあります。主よ、わたしたちが霊的戦いのために、自分の意志を活用することによって、主の中で大能の中で力づけられますように。
わたしたちは自分の意志を活用して、主の中で力づけられる必要があります
力づけられなさいという命令は、わたしたちが自分の意志を活用する必要があることを暗示しています。霊的戦いのために力づけられようとするなら、わたしたちの意志は強くあり、活用されなければなりません。わたしたちはくらげのように、意志が弱くてぐらついている者であってはなりません。
ぺンテコステの日にペテロは人々に、「この曲がった世代から救われなさい」と告げました(使徒2:40)。この命令は、能動的でありまた受動的であるように見えます。これには、「なさい」という能動的なことを暗示する言葉と、「救われ」という受動的なことを暗示する言葉があります。エペソ人への手紙第6章10節の「力づけられなさい」というパウロの命令も同じです。……わたしたちは自分の意志を活用して、主の中で力づけられる必要があります。…… わたしたちは新しい人のために新しくされる必要があり、花嫁のためには服従する必要があり、戦士のためには力づけられる必要があります。(エペソ人への手紙ライフスタディ(3)、第63編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第18日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第11週3日)
わたしたちはキリストの苦難において彼と一である必要があります
啓19:7,13,14
わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。 13……彼の名は神の言と呼ばれる。14 そして天にある軍勢が白い馬に乗り、白くて清い細糸の亜麻布を着て彼に従った。
「アビガイルがダビデと結婚したことは、戦いのために軍隊に加わった召会を予表しています(エペソ6:10-20)。アビガイルは、神の王国のために苦難のただ中で戦う召会を予表しています(啓1:9.11:15.12:10)。アビガイルの予表は、わたしたちがキリストの苦難において彼と一である必要があることを描写しています(ピリピ3:10.コロサイ1:24.啓1:9)」。
主よ、あなたは、神の王国のために苦難のただ中で戦うアビガイルのような召会を必要としています。主よ、わたしたちが、キリストの苦難にあずかり、神の執事職を遂行する者となることができますように。
神の執事職は苦難を通してのみ遂行されます
コロサイ人への手紙第1章24節でパウロは言います、「わたしは今、あなたがたのために受ける苦難を喜び、そしてキリストのからだなる召会のために、キリストの苦しみの欠けたところを、わたしの肉体において補い満たしています」。キリストの苦しみは、二つの部類から成ります。一つは、贖いを成就するためのものであり、それはキリストご自身によって成就されました。もう一つは、召会を生み出し建造するためのものであり、それは使徒たちと信者たちによって、満たされる必要があります。
パウロがキリストの苦しみを神の執事職に関連して述べているという事実は、執事職が苦難を通してのみ遂行され得ることを示しています。もしわたしたちが神の執事職にあずかることを願うなら、苦しむ用意ができていなければなりません。召会の奉仕に、あるいは務めにあずかる者たちはすべて、執事の苦しみにあずかる用意ができていなければなりません。この事が意味するのは、わたしたちが、自分の執事職を果たすのに必要とされる代価は何であれ、進んで支払わなければならないということです。(「コロサイ人への手紙ライフスタディ(1)」、第11編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第17日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第11週2日)
キリストは、王であり祭司であることに加えて、戦士です
啓19:11
……わたしは、天が開かれるのを見た.すると見よ、白い馬と、それに座している「忠信」と「真実」と呼ばれる方がおられた.彼は義の中で裁き、また戦う。
「ダビデは、苦難のただ中で戦うキリストを予表しています(サムエル上25:28)。ダビデは、復活する前に地上で苦難の中にあった人としての主イエスを予表しています。詩篇第110篇5節から6節が啓示しているのは、キリストが王でありまた祭司であることに加えて、戦士であるということです。啓示録第19章11節から14節によれば、キリストは再来する時、戦う方です」。
主よ、あなたはの婚宴の後、戦う将軍として、彼の花嫁、すなわち、彼の軍勢である勝利を得た信者たちと共に来られます。主よ、わたしたちが今日の恵みの時代に、生活の中で勝利を得て花嫁・戦士たちとなることができますように。
キリスト、花婿はご自身彼の花嫁と共に来て、反キリスト、偽預言者、十人の王とその軍隊と戦います
啓示録第19章11節から16節と19節から21節で、キリストは神の言―王の王、主の主―として啓示されています。彼は戻って来て、反キリストと偽預言者を打ち破り、滅ぼします。キリストは彼の婚宴の後、戦う将軍として、彼の花嫁、すなわち、彼の軍勢である勝利を得た信者たちと共に来て、ハルマゲドンで反キリストと、彼の下にいる王たちと、彼らの軍隊とに対して戦います。これら三者はキリストに反対し続けます。反キリストに扇動されて、人は主の主、王の王と直接戦いさえします。反キリスト、偽預言者、十人の王とその軍隊は小羊と戦います。この戦いは、天に逆らう地の戦い、神に逆らう人の戦いです。キリストの敵はますます邪悪になって、神に宣戦布告さえします。
人が実際に神に宣戦布告することができたとは、実に驚くべきことです。ですから、キリスト、花婿はご自身彼の花嫁と共に来て彼らと戦います。……花婿は最高司令官であり、花嫁は彼の軍勢です。これは新婚夫婦にとってハネムーンとなります。キリストはこのハネムーンの期間に宇宙を一掃されます。(「新約の結論(25)」、メッセージ425、426)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第16日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第11週1日)
アビガイルは戦いにおける、ダビデの配偶者となりました
サムエル上25:28
どうか、あなたのはしための違反を赦してください.エホバは必ずわが主君のために、確かな家を造られます.わが主君はエホバの戦いを戦っておられ、あなたの一生の間、何の悪もあなたの中に見いだされないからです。
「サムエル記上第25章1節後半から44節は、ダビデがナバルとアビガイルを対処したことの記録です。わたしたちはこの章で、ダビデをなだめることでのアビガイルの知恵を見ます(サムエル上25:23-31)。アビガイルの美しさと知恵はダビデを捕らえ、ダビデはナバルの死後、彼女を妻にしました。彼女は戦いにおける、ダビデの配偶者となりました(サムエル上25:36-44)」。
主よ、あなたは今エホバの戦いを戦っておられます。主よ、わたしたち召会がアビガイルのように、苦難の中の戦いにおいて、主に従って行く配偶者となりますように。
古い人が打ち倒された時、わたしたちはキリストの配偶者となって、苦難の中で彼に従い、神の王国のために戦います
ダビデは旧約において啓示されているキリストの最も徹底的な予表であり、最も長い期間を扱っています。新約もまたダビデがキリストを予表するとはっきりと啓示しています(マタイ12:3)。このゆえに、ダビデの妻は召会の予表です。ダビデには少なくとも三人の妻がいました。…… しかしながら、アビガイルだけが(サムエル上25:42節)、召会を予表する特徴を持っています。
アビガイルの以前の夫は、わたしたちの古い人がキリストを捨て去ることでいかに邪悪であるかを示しています。アビガイルの以前の夫はナバルであり、それは「愚か」を意味します(サムエル上25:25)。ナバルはダビデの貧困の時に彼を軽んじ、拒絶し、反対しました(10-11節)。このことは、わたしたちの性質がキリストを拒絶し、キリストを軽んじ、キリストに反対することを予表します。しかしながら、ある日ナバルは討ち倒され、死にました。このことはアビガイルにダビデの妻となる機会を提供しました。このことが示しているのは、キリストを捨て去り、キリストを拒絶し、キリストを軽んじたわたしたちの腐敗した性質が打ち倒された時、わたしたちはキリストの配偶者となって、苦難のただ中で彼に従って行き、神の王国のために戦うということです。(「召会の三つの面、第1巻:召会の意義」、第8章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第14日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週6日)
神はわたしたちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を展覧します
エペソ2:7
それは神が、キリスト・イエスの中で、わたしたちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において展覧するためでした。
エペソ4:32
そして、互いに親切で情け深くあり、神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
「愛は慈しみ(親切)です(Ⅰコリント13:4)。わたしたちは互いに慈しみを示し(親切で)、情け深くあり、神がキリストにあってわたしたちを赦してくださったように、赦し合う必要があります(エペソ4:32)」。
主よ、千年期と未来の永遠において、わたしたちに対する慈愛の中の恵みの卓越した豊富が展覧されます。主よ、わたしたちがこの時代にキリストを享受して、あなたが慈愛の中でわたしたちを赦してくださったように、互いに赦し合うことができますように。
神の命によって、わたしたちは神が赦してくださったように、赦すことができます
キリスト・イエスの中でのわたしたちに対する慈しみによって、神はわたしたちを彼の恵みによって救ってくださいました。来たるべき時代、すなわち、千年期と未来の永遠において、神はこの恵みを全宇宙に公に展覧されます。
わたしたちの命の供給としての、またわたしたちの喜びとしてのキリストに対する享受だけが、わたしたちの心を柔らかくすることができます。わたしたちが情け深いなら、人を赦すでしょう[参照、エペソ4:32]。
わたしたちは日常の歩みの中で、人を赦すことと、人に赦してもらうことの両方を必要とします。これが必要であるのは、わたしたちは容易に人を怒り、また容易に人を怒らせるからです。もしわたしたちがだれかを怒るなら、赦しを求める必要があります。しかし、もしわたしたちが人に怒らせられたなら、神がキリストにあってわたしたちを赦してくださったように、他の人に赦しを与える必要があります。使徒は、この区分における彼の勧告の中で、神をわたしたちの日常生活の模範として示しています。神の命によって、彼の霊の中で、わたしたちは神が赦してくださったように、赦すことができます。(「エペソ人への手紙ライフスタディ」、第21、48編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第13日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週5日)
神のあわれみは、神の恵みよりも遠くまで届きます
テトス3:4-5
しかし、わたしたちの救い主・神の慈しみと、人に対する彼の愛が現れた時、彼はわたしたちを救ってくださいました.それは、わたしたちが行なった義のわざによってではなく、彼のあわれみによってであり、再生の洗いと聖霊の更新を通してです。
「メピボセテに対するダビデの慈しみは、神の慈しみを表徴しています(サムエル下9:3.ローマ2:4.エペソ2:7.テトス3:4-5)。慈しみ(慈愛)は、神のあわれみと愛から出てくる情け深い優しさです(エペソ2:4, 7)。わたしたちの救い主・神の慈しみと愛によって(テトス3:4)、主の恵みによって救われました(テトス2:11.3:7)。テトス第3章5節は、神がわたしたちを救ってくださったのは、彼のあわれみによると言っています。神のあわれみは、神の恵みよりも遠くまで届きます(ローマ9:15-16, 18, 23.ヘブル4:16)」。
主よ、神のあわれみと愛から出てくる慈愛を感謝します。主よ、神の豊かな慈愛と寛容と辛抱強さは、わたしたちが悔い改めることをあなたが待っておられるからです。主よ、わたしたちがこのことを知って、真に悔い改めることができますように。
神の豊かな慈愛と寛容と辛抱強さは、わたしたちを悔い改めに導いています
[ローマ人への手紙第2章4節は]言います、「あなたは、神の豊かな慈愛と寛容と辛抱強さとを軽んじて、神の慈愛があなたを悔い改めに導いていることを知らないのですか?」。使徒はこう言っているかのようです、「あなたは、神があなたを裁かれると思うのですか、それとも、彼の豊かな慈愛と寛容と辛抱強さとを軽んじるのですか? あなたは、神があなたを裁かれないと思っています。あなたは、彼が確かにあなたを裁かれることを知らないようです。彼があなたを裁かれなかったのは、あなたに対して慈愛があるからです。彼の慈愛は彼に、あなたに対して寛容であらせ、彼の寛容は彼に、あなたに対して辛抱強くあらせます。
主があなたに慈愛があるのは、あなたを悔い改めに導きたいからです。彼があなたに対して寛容で辛抱強くあるのは、あなたが悔い改めることを、彼が待っておられるからです。彼の裁きがあなたに臨まなかったのは、彼の慈愛が彼に、あなたに寛容で辛抱強くあらせ、あなたが悔い改めることを、彼が待っておられるからです。これが、あなたが知るべきであり、軽んじてはならないことです」。(リー全集、1952年、第2巻、205-206ページ――英文)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第12日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週4日)
わたしたちは、常に王の食卓で食事をします
サムエル下9:13
メピボセテはエルサレムに住んだ.彼が常に王の食卓で食事をしたからである。彼は両足とも不自由であった。
ヘブル12:2
わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.……
「霊的に言って、わたしたちはみな、両足が不自由であった、サウル王の孫メピボセテのようです(サムエル下4:4)。わたしたちは救われた後、自分の「不自由な両足」について忘れて、わたしたちの王であるイエス・キリストの食卓に着いて彼を享受すべきです(サムエル下9:7.ローマ14:17.ネヘミヤ8:10)。神がわたしたちのために設けてくださったものは、すばらしく、豊富で、甘いのです。わたしたちはただ食べる必要があります(ヨハネ6:50-51, 53-57.マタイ8:11.22:2.啓19:9)。わたしたちは自己内省から離れ去って、主をひたすら見つめる必要があります(ヘブル12:2.2:9)」。
主よ、わたしたちはメピボセテよように両足が不自由な者たちですが、王の食卓で食事をするように招かれていることを感謝します。主よ、わたしたちが自分を見るのではなく、わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめて前進することができますように。
わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめます
わたしたちはみな、サウル王の孫メピボセテのようです(サムエル下4:4)。メピボセテは足が不自由で、歩くことができませんでした。ダビデ王は、彼の命を保護し、彼のすべての嗣業を彼に返し、ダビデと同じ宴席に彼を招きました(9:1-13)。メピボセテはダビデから恵みを受けた後、ダビデの食卓の上にある豊富だけを見ました。メピボセテは食卓の下にある自分の不自由な両足を見ませんでした。わたしたちは自分自身を見るときはいつでも、自分の足が不自由であることを見いだし、失望してしまいます。
わたしたちは救われた後、自分の不自由な両足について忘れて、わたしたちの王であるイエス・キリストの食卓に着いて、彼と彼のすべての計り知れない豊富を享受すべきです。わたしたちは主の食卓の豊富だけを見て、それらを享受すべきです。わたしたちが計り知れない豊富なキリストを享受することによって、彼はわたしたちを造り変えます。(リー全集、1965年,第2巻(上)、「命の木」、第14編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第11日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週3日)
ダビデの心は、慈しみとあわれみ深さで満ちていました
サムエル上20:14-15
……エホバの慈愛をわたしに示して、わたしが死ぬことのないようにしてください.あなたの慈愛をわたしの家から永久に断ち切らないでください.……
「ダビデが「メピボセテよ」と言ったとき、ダビデの心にはあわれみ深い感覚があり、彼の声には喜ばしい口調がありました(サムエル下9:6-7)。この言葉の根底には、神の心を表現した心がありました(サムエル上16:7)。ダビデの心は、慈しみとあわれみ深さで満ちていました(サムエル上20:14-15)」。
主よ、あなたは「メピボセテよ」と呼んだように、わたしたちの名前を呼んでくださいました。主よ、あなたの慈しみを感謝します。主よ、あなたは何とあわれみ深さで満ちていたことでしょう。
主イエスの血を見るとき、神がどれほどわたしを愛してくださっているかを知ります
マグダラのマリア……は、主が園丁であると思いました。彼女が園丁に、イエスはどこにおられるのかと尋ねた時、主は「わたしは園丁ではない」とか、「わたしは彼の体を取り去っていない」とか、「あなたは女である。どうして体を得ることができるか?」とは言われませんでした。主はただ「マリアよ!」と言われました。彼女はとても良く知っていたこの声を聞くと直ちに、「ラボニ!」と言いました。わたしたちは、人が他の人を名前だけで呼ぶとき、その背後に大きな意義があるに違いないことを知っています。その日ダビデは彼の敵の孫を見て、ただ「メピボセテよ」と言いました。これは、ダビデの心には憎しみがなかっただけでなく、あわれみ深さで満ちていたことを見せています。……
イエスはすでに、あなたのために死んでくださいました。これは、すでに神の心にあるものをあなたに示しているはずです。あなたは主イエスの血を見るとき、神がどれほどあなたを愛してくださっているかを知るでしょう。(ニー全集、第18巻、第32号)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第10日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週2日)
神から遠く離れた罪人は、草のない場所「ロ・デバル」で生活しています
ローマ2:4
それともあなたは、神の豊かな慈愛と寛容と辛抱強さとを軽んじて、神の慈愛があなたを悔い改めに導いていることを知らないのですか?
「メピボセテが生活していた場所である「ロ・デバル」は、「草のない、牧草のない場所」を意味するヘブル語です。今日のこの世は「ロ・デバル」です(サムエル下9:4)。メピボセテは、ダビデから逃れて、草のない、すなわち、どのような命の供給もない場所で生活していました(サムエル下9:4)。神から遠く離れた罪人も、草のない場所で生活しています」。
主よ、わたしたちはどのような命の供給もない「ロ・デバル」のような場所で、神から遠く離れて生活していました。主よ、あなたがわたしたちを訪れ、慈愛を示して、悔い改めに導いてくださったことを感謝します。
神の豊かな慈愛と寛容と辛抱強さを感謝します
メピボセテは、ダビデから逃れて、草のない場所「ロ・デバル」で生活していました。神から遠く離れた罪人も、牧草のない場所で生活しています。…… 「サウルの子、ヨナタンの子メピボセテはダビデの所に来て、ひれ伏して敬意を表した。ダビデは、『メピボセテよ』と言った。彼は、『あなたのしもべはここにおります』と言った」(サムエル下9:6)。ここに最も喜ばしい音楽があります! 「メピボセテよ」。ダビデはメピボセテを見た時、それ以上何も言いませんでした。……
あなたはかつて、ダビデが「メピボセテよ」と言ったとき、彼の心にどのような感覚があったか、彼の声の口調はどうであったか、考えたことがあるでしょうか? この言葉の根底には、高鳴る心、神の心を表現した心がありました。「メピボセテよ」は、神が人を憎んでおられないこと、神が人を欲しておられること、神が人を愛しておられることを見せています。(ニー全集、第18巻、第32号)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月の祈り 第9日
(朝ごとの食物 サムエル記上、下 結晶の学び (3) 第10週1日)
ダビデがメピボセテに慈しみを示したのは、ヨナタンのゆえでした
サムエル下9:7
ダビデは彼[メピボセテ]に言った、「恐れることはない.わたしは必ずあなたの父ヨナタンのために、あなたに慈しみを示す.あなたの父祖サウルの地をすべてあなたに返そう.あなたはいつも、わたしの食卓で食事をするように」。
「メピボセテは、恵みを受ける何の立場も持っていませんでしたが、それを受けました。わたしたちと神との間にも同じ事が言えます。メピボセテが慈しみを受けたのは、自分自身のゆえにではなく、別の人のゆえにでした(サムエル下9:7)。この事は、神の御前での罪人にも言えます(ローマ2:4)」。
主よ、わたしたちはメピボセテのように、神の御前に何の地位もなく、恵みを受ける立場のない者でした。今、あなたの慈しみのゆえに恵みにあずかっていることを感謝します。
神が罪人を恵まれたのは、彼の御子イエスのゆえでした
メピボセテは、恵みを受ける何の立場も持っていませんでしたが、それを受けました。わたしたちと神との間にも同じ事が言えます。
神も尋ねておられます、「アダムに属する者で、まだ生き残っている者がいるか? わたしは彼に恵みを示したい」。ダビデがメピボセテに慈しみを示したのは、ヨナタンのためでした。神が罪人を恵まれたのは、彼の御子イエスのゆえでした。人は大きな間違いをして、神は人を憎んでおられると思っています。彼らは、人は多くの善を行なわなければならない、そうしてはじめて神の御顔は自分に向けられると思っています。……
多くの人は、「わたしは神を喜ばせることができる前に、善を行なわなければならない」と考えています。しかし聖書は、神は「理由なしに」わたしたちを愛しておられると告げています。わたしたちは神の御前に何の地位もなく、彼の恵みを得るべきではありません。しかし、わたしたちのヨナタン、イエス・キリストがおられます。神は彼のゆえにわたしたちを恵まれました。わたしたちが救われるのは、神の御前に主イエスを持っているからです。主があるので、わたしたちは神の御前に来ることができるのです。(ニー全集、第18巻、第32号)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月 第6日
(2022年5月全国特別集会 メッセージから)
主題:
神の長子としての復活におけるキリストを知り、経験し、増殖させる
標語
① キリストは彼の復活を通して、生まれて神の長子となりました。そして同時に、彼のすべての信者は生まれて神の多くの子たちとなりました。
② 自己の様から救われる道は、神の長子のかたちに同形化されることです。
③ 命の霊の法則の機能は、神の長子のかたちにわたしたちを形成し、わたしたちを同形化することです。
④ わたしたち、神の子たちが召会として集会し、御父を賛美するとき、長子はわたしたちが賛美している中で御父を賛美します。
M1:人の性質を持つ、力の中で明示された神の御子としての、復活におけるキリストを知る
キリストは彼の復活の中で、「聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示され」ました(ローマ1:4)。キリストは彼の復活を通して、生まれて神の長子となりました。そして同時に、彼のすべての信者は生まれて神の多くの子たちとなりました(Ⅰペテロ1:3.ヘブル2:10)。
M2:父祖に対してなされた約束にしたがって、長子としての復活したキリストを増殖させる
「神は彼を復活させて、子孫であるわたしたちに、この約束を完全に成し遂げられました. それは詩篇第二篇にも、『あなたはわたしの子である.この日わたしはあなたを生んだ』と書き記されているとおりです」(使徒13:33)。「この方を通して、罪の赦しがあなたがたに宣べ伝えられているのです」、また「この方を信じる人はすべて義とされるのです」(使徒13:38-39)。
M3:神の長子のかたちに同形化されることによって、命の中で自己の様から救われる
わたしたちはキリストにある信者、神の子供たちとして、命の中で自己の様から救われる必要があります(ローマ5:10.8:29.マタイ16:21-26)。キリストの命の中で自己の様から救われる道は、神の長子のかたちに同形化されることです(ローマ8:29)。
M4:命の霊の法則の形成する機能
命の霊の法則の機能は、神の長子であるキリストのかたちにわたしたちを形成し、わたしたちを同形化することです(ローマ8:2,29)。わたしたちは長子のかたちに同形化されて、神を団体的に表現するために、特異性から救い出される必要があります(Ⅰヨハネ3:2)。そのために、キリストの復活の力によって、彼の死に同形化される必要があります(ピリピ3:10)。
M5:神の子たち、またキリストの兄弟たちは、召会の中で神の長子を経験する
わたしたちはキリストにある信者として、父なる神の子たちであり、また神の長子の兄弟たちです(ヘブル2:10-11)。「召会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います」(ヘブル2:12後半)。これは、長子が召会の集会において、御父の子たちの内側で御父を賛美することです。(2022年5月全国特別集会アウトライン)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月 第5日
(2022年5月全国特別集会 メッセージ5から)
主題:
神の長子としての復活におけるキリストを知り、経験し、増殖させる
メッセージ5
神の子たち、またキリストの兄弟たちは、召会の中で神の長子を経験する
ヘブル2:12後半
召会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います。
わたしたちはキリストにある信者として、父なる神の子たちであり、また神の長子の兄弟たちです(ヘブル2:10-11)。神の心の願いは、多くの子たちを得て、ご自身を団体的に表現することです(エペソ1:5.ヘブル2:10)。わたしたちは神の選ばれた者たちとして、わたしたちの霊の中で神から生まれて、神の子たちとなりました(ヨハネ1:12-13.3:6)。わたしたちの体が変貌させられて、わたしたちが完全な子たる身分を持つ日が来つつあります(ピリピ3:21)。
「聖別する方と、聖別されつつある者たちは、すべてひとりの方から出ているのであり、それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされ」ません(ヘブル2:11)。聖別する方は、神の長子としてのキリストです。聖別されつつある者たちは、神の多くの子たちとしての、キリストにある信者です(ヘブル2:10)。聖別する方は、多くの子たちを栄光へもたらしつつある方です(ヘブル2:10-11)。
神の子たちが集会して御父を賛美するとき、長子はわたしたちが賛美している中で御父を賛美します
「わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに言い表し」ます(ヘブル2:12前半)。長子は死人の中から復活した後、御父の子たちに出会い、御父の御名を言い表しました(ヨハネ20:17, 19-23)。長子は今日、召会の中で、御父の御名を彼の兄弟たちに言い表しています(ヘブル2:12)。
「召会のただ中で、わたしは賛美の歌をあなたに歌います」(ヘブル2:12後半)。これは、長子が召会の集会において、御父の子たちの内側で御父を賛美することです。 わたしたち、神の子たちが召会として集会し、御父を賛美するとき、長子はわたしたちが賛美している中で御父を賛美します。わたしたちは御父に向かって歌えば歌うほど、ますますわたしたちの内側での彼の臨在、彼の行動、彼の油塗り、彼の命の分け与えを享受します。その結果、わたしたちは彼の中で成長し、栄光へもたらされます(ヘブル2:10)。(2022年5月全国特別集会アウトライン)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月 第4日
(2022年5月全国特別集会 メッセージ4から)
主題:
神の長子としての復活におけるキリストを知り、経験し、増殖させる
メッセージ4
命の霊の法則の形成する機能
ローマ8:2
なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。
ローマ8:29
なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.
命の霊の法則の機能は、神の長子であるキリストのかたちにわたしたちを形成し、わたしたちを同形化することです(ローマ8:2, 29)。あらゆる種類の命には四つの基本的な特徴があります。それは命の本質、命の力、命の法則、命の形成です。命の霊の法則のこの形成する機能は、命の成長を必要とします。なぜなら、命が成長するときはじめて、命の霊の法則は機能するからです。命の霊の法則によって形成されることが、ローマ第8 章29 節の「同形化」されることの意味です。
神聖な命はわたしたちの内側で成長し、わたしたちを造り変えるとき、自然にわたしたちを神の長子のかたちへと形成します(ローマ8:2.ヘブル2:10)。最終的に、命の霊の法則の機能を通して、わたしたちはみな神の円熟した子たちとなり、神はご自身の団体の表現を得ます(啓21:7, 10-11)。
わたしたちが神を団体的に表現するために、特異性から救い出される必要があります
わたしたちは長子のかたちに同形化されて、神を団体的に表現するために、特異性から救い出される必要があります(Ⅰヨハネ3:2)。特異性は、わたしたちの天然の命の最終の表現であって、わたしたちの偏った、ゆがんだ特性です。ですから、わたしたちの特異性は、わたしたちがキリストをさらに豊富に経験することを妨げ、キリストを生きることを妨げ、キリストのからだとして建造されることを妨げます(エペソ3:8.4:16.ピリピ1:20-21 前半)。こういうわけで、特異性はわたしたちの存在の中の恐ろしい反キリストです。
わたしたちは神の長子のかたちに同形化されようとするなら、キリストの復活の力によって、彼の死に同形化される必要があります(ピリピ3:10)。キリストの死は鋳型であり、その中でわたしたちは神の長子としての彼のかたちへと形成されつつあります。わたしたちは造り変えと同形化の過程を経過しつつあるとき、キリストの死に同形化されつつあります。(2022年5月全国特別集会アウトライン)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月 第3日
(2022年5月全国特別集会 メッセージ3から)
主題:
神の長子としての復活におけるキリストを知り、経験し、増殖させる
メッセージ3
神の長子のかたちに同形化されることによって、命の中で自己の様から救われる
ローマ5:10
というのは、わたしたちが敵であった時に、神の御子の死を通して神に和解させられたからには、和解させられている今、彼の命の中で救われるのは、なおさらのことです.
ローマ8:29
なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.
わたしたちはキリストにある信者、神の子供たちとして、命の中で自己の様から救われる必要があります(ローマ5:10.8:29.マタイ16:21-26)。自己の様とは、自己の表現、現れです(マタイ16:24)。自己は魂の命であり、その強調点は、人の考えや意見にあります(マタイ16:23)。自己はサタンの具体化です。自己は、魂にあるサタンの本質であり、魂を神から独立させて、自己の意見と自己の意志を表現します(マタイ16:24)。キリストの命の中で自己の様から救われることは、自己から救われることです(ローマ5:10)。
自己の様から救われる道は、神の長子のかたちに同形化されることです
キリストの命の中で自己の様から救われる道は、神の長子のかたちに同形化されることです(ローマ8:29)。同形化は、造り変えよりも高く、また信者の造り変えの究極的完成であり、命の形成を意味しています(ローマ8:29.12:2)。造り変えは内側のもので、本質の事柄であり、同形化は外側のもので、形成の事柄です(8:29)。
主はわたしたちを聖別し、わたしたちを造り変えており、それはわたしたちが主のかたちに同形化されるためです。ですから、造り変えは同形化という結果になります。
ローマ第1 章3 節から4 節では、神の御子であるキリストは原型であり、第8 章29 節では、多くの兄弟たちは原型から「大量生産された」者たちです。わたしたちが神の長子のかたちに同形化されるのは、わたしたちが一群れの神・人となって、彼と全く同じようになるためです。(2022年5月全国特別集会アウトライン)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月 第2日
(2022年5月全国特別集会 メッセージ2から)
主題:
神の長子としての復活におけるキリストを知り、経験し、増殖させる
使徒13:23, 32
「この人の子孫から、神は約束にしたがって、イスラエルに救い主、イエスをもたらしました.……わたしたちは、父祖に対してなされた約束の福音を、あなたがたに宣べ伝えているのです」
メッセージ2
父祖に対してなされた約束にしたがって、長子としての復活したキリストを増殖させる
「神は彼を復活させて、子孫であるわたしたちに、この約束を完全に成し遂げられました. それは詩篇第二篇にも、『あなたはわたしの子である.この日わたしはあなたを生んだ』と書き記されているとおりです」( 使徒13:33)。使徒第13 章32 節と33 節でわたしたちが見るのは、神の長子としてのキリストが父祖に対して約束されており、神がイエスを復活させることによってこの約束を成就したということです。復活は、人なるイエスにとって誕生でした。彼は復活の中で神によって生まれ、多くの兄弟たちの間で神の長子となりました(ローマ8:29)。
キリストの復活は、神の長子としての彼の誕生でした
パウロは詩篇第2 篇7 節に主の復活を見ることができました、「あなたはわたしの子.今日、わたしはあなたを生んだ」。パウロは「今日」という言葉を、主の復活の日に適用しました。これが意味するのは、キリストの復活が、神の長子としての彼の誕生であったということです。
使徒第13章でパウロが宣べ伝えていたのは、ヨハネによる福音書が宣べ伝えているような、神のひとり子であるキリストではなく(ヨハネ1:18.3:16)、増殖のための神の長子であるキリストでした。 キリストは復活を通して、命を分与する方としての神の長子となり、命を増殖させました(ローマ8:29)。まず、キリストは命の具体化として神のひとり子でした。今や、彼は命を増殖させるために神の長子でもあります。
「この方を通して、罪の赦しがあなたがたに宣べ伝えられているのです」、また「この方を信じる人はすべて義とされるのです」(使徒13:38-39)。罪が赦されることは、消極的な面についてであり、わたしたちが罪定めから解放されるためです(使徒13:38)。義とされることは、積極的な面についてであり、わたしたちが神に和解させられ、彼に受け入れられるためです(使徒13:39.ガラテヤ2:16.ローマ3:24-25)。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
5月 第1日
(2022年5月全国特別集会 メッセージ1から)
主題:
神の長子としての復活におけるキリストを知り、経験し、増殖させる
標語
① キリストは彼の復活を通して、生まれて神の長子となりました。そして同時に、彼のすべての信者は生まれて神の多くの子たちとなりました。
メッセージ1
人の性質を持つ、力の中で明示された神の御子としての、復活におけるキリストを知る
ローマ1:3,4
彼の御子に関するものです. この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです.
キリストは彼の復活の中で、「聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示され」ました(ローマ1:4)。キリストは肉体と成ることと復活の前、神の御子、すなわち、ひとり子でしたが(ヨハネ1:18.3:16)。復活から神の御子と明示される必要が依然としてありました。なぜなら、彼は肉体と成ることによって、神性とは何の関係もない人の性質を着ていたからです(ヨハネ1:1,14.ローマ8:3)。
キリストが人性を持つ神の御子と明示されたことは、「聖別の霊に」よりました
キリストは彼の復活によって、彼の人の性質、すなわち彼の人性を聖別し、引き上げました。また、彼は復活から、この人の性質を伴う神の御子として明示されました。この意味で、彼は彼の復活の中で神の御子として生まれました(ローマ1:3-4.使徒13:33.ヘブル1:5)。彼は今や以前にもましてすばらしい方法で神の御子です。なぜなら、彼は今や神聖な性質と、人の性質(復活させられ、造り変えられ、引き上げられ、栄光化され、明示された人の性質)との両方を持っているからです(ローマ6:4.ルカ24:26.ヨハネ17:5.使徒3:13)。
キリストは彼の復活を通して、生まれて神の長子となりました。そして同時に、彼のすべての信者は生まれて神の多くの子たちとなりました(Ⅰペテロ1:3.ヘブル2:10)。(2022年5月全国特別集会アウトライン)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)