朝ごとの食物

第7週2日~第3週1日

 

10月の祈り第31日

(7月訓練 第7週2日)

 

神の法理的な贖いは、神の全体的な救いの手続きであり、神の有機的な救いにあずかるためです

 

エペソ1:7

その愛する者の中で、わたしたちは彼の血を通しての贖い、すなわち違犯の赦しを受けています.これは、神の恵みの豊富によります。

 

ローマ3:24

無代価で、彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです。

 

「神の法理的な贖いは、神の全体的な救いの手続きであり、それは信者たちが、神の全体的な救いの目的としての神の有機的な救いにあずかるためです(ローマ5:21)。神の有機的な救いのすべての項目は、地上の務めにおける肉体にあるキリストによって、天の務めにおける命を与える霊としてのキリストによって、有機的にまた主観的に遂行されます(Ⅰコリント15:45後半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたが地上の務めにおいて遂行された法理的な贖いを感謝します。また、キリストが復活において、命を与える霊と成られたことを感謝します。主よ、わたしたちが命を与える霊としてのキリストによって、有機的な救いにあずかることができますように。

 

 

神の有機的な救いのすべての項目は天の務めにおいて、有機的に、主観的に遂行されます

 

 キリストが彼の地上の務めにおいて遂行されたものは、神の全体的な救いの手続きであり、それは信者たちが、神の全体的な救いの目的としての神の有機的な救いにあずかるためです。この手続きは、わたしたちを一つの水準から他の水準にもたらすエスカレーターにたとえることができます。…… 

 

 わたしたちが神の全体的な救いの手続きと彼の全体的な救いの目的を区別することは、極めて重要です。…… 神の法理的な贖いを経験した者は、ただ贖われることによって救われたと考えられますが、神のエコノミーを完成することで、神の有機的な救いによってさらに救われる必要があります。わたしたちはキリストの地上の務めの物質の領域を経過して、さらに高いものの中へと、キリストの天の務めの奥義的な領域の中へと入る必要があります。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第30日

(7月訓練 第7週1日)

 

神の全体的な救いには二つの面、法理的な面と有機的な面があります

 

ローマ5:10,21

というのは、わたしたちが敵であった時に、神の御子の死を通して神に和解させられたからには、和解させられている今、さらにいっそう彼の命の中で救われるからです。…… 21  それは、罪が死の中で王として支配したように、恵みもまた義を通して王として支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に至るためです。

 

「 神の全体的な救いは、二つの面から成っています。それは法理的な面と有機的な面です(ローマ5:10, 21)。神の救いの法理的な面は、キリストの地上の務めの物質の領域の中で、客観的に、肉体におけるキリストによって完成されました(ヨハネ1:14.コロサイ1:22)。神が十字架上でのキリストの贖いの死によって、罪人に対する神の義なる律法のすべての要求を満たしたことを通してです(ガラテヤ3:13.Ⅰペテロ2:24.Ⅱコリント5:21.ヘブル9:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 わたしたちが敵であった時に、神の御子の死を通して神に和解させられたことを感謝します。神の救いの法理的な面を感謝します。主よ、あなたが十字架上での贖いの死によって達成された五項目、 罪の赦し、罪の洗い清め、義認、神への和解、地位上の聖別を認識し、享受することができますように。

 

 

法理的な面は手続きであり、罪の赦し、罪の洗い清め、義認、神への和解、地位上の聖別を含みます

 

 神の全体的な救いにおいて、彼が法理的な面で行なわれることは手続きであり、有機的な面で行われることは目的です。手続きの面で、神が彼の法理的な要求にしたがって成就されたことは贖いであり、罪の赦し、罪の洗い清め、義認、神への和解、地位上の聖別を含みます。元来、わたしたちは神の罪定めの下で罪人であり、神の敵でもありましたが、今や赦され、罪から洗い清められ、神によって義とされ、神に和解させられ、地位上、神へと聖別されました。これが贖われることです。……

 

 神の全体的な救いの第一の面は法理的な面であり、達成されたのは、わたしたちの罪が赦され、罪から洗い清められ、義とされ、神に和解させられ、地位上、聖別されることです。この五つの項目はわたしたちに、神の恵みの中へ入る資格と地位を与えます。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(下)、「神の救いの有機的な面」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第28日

(7月訓練 第6週6日)

 

相互の牧養によって、キリストのからだが建造されます

 

Ⅰコリント12:24-26

……神は欠けている肢体にさらに豊かな尊さを与えて、体を調和させられました.それは体に分裂がなく、各肢体が互いに同じ顧みを持つためです。もし一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体が共に苦しみます.もし一つの肢体が栄光を受けるなら、すべての肢体が共に喜びます。

 

「キリストのからだを建造する牧養は、相互の牧養です(Ⅰコリント12:23-26)。わたしたちはみなキリストの有機的な牧養の下にいる必要があり、彼と一になって互いを牧養する必要があります(ヨハネ21:15-17)。わたしたちは羊であり、また牧者でもあって、相互に牧養し、牧養されます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはあなたの牧養の下にある羊です。また、あなたとの一の中で牧養する者でもあります。主よ、キリストのからだを建造するために、わたしたち兄弟姉妹の間で相互の牧養がありますように。このために、わたしたちが相互の信頼を建て上げることを学ぶことができますように。

 

 

すべての肢体が互いに開き合い、相互の信頼を建て上げる方法で振る舞います

 

 わたしたちは、新しく救われた人や回復された人が直ちに正しい状態になることを期待すべきではありません。……弱い人は、何度も彼と接触するためにわたしたちの忍耐を要求するでしょう。このような絶え間ない忍耐のある接触は、人々を牧養します。これには時間がかかります……召会は牧養を通して成長します。…… わたしたちは自分の顧みの下にいる人たちを信頼し、彼らに頼ることを学ばなければなりません。これは正しい交わりを持つことです。ある意味で、わたしたちは自分の子供を養う親ですが、別の意味で、わたしたちはみな兄弟姉妹です。

 

 ですから、わたしたちは、他の人たちがわたしたちに頼っているだけでなく、わたしたちも彼らに頼っていることを彼らに示すべきです。この相互に頼ることは多くの益をもたらします。それは他の人たちをわたしたちに開かせ、信頼させ、信用させます。…… すべての肢体は互いに開き合わなければなりません。そうすれば、循環が正しく働きます。(リー全集、1973年-1974年、第2巻(下)、「召会を建造するための実を結び牧養する正常な道」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第27日

(7月訓練 第6週5日)

 

わたしたちはキリストで構成されて、牧養の生活をします

 

Ⅱコリント6:11,13

コリント人よ、わたしたちの口はあなたがたに向かって開かれており、わたしたちの心は広くされています。…… わたしは、子供たちに対するように語りますが、それに応じて、あなたがたも心を広くしてください。

 

「わたしたちは神にしたがって牧養するために、牧養の生活をする必要があります(ヨハネ21:15-17.Ⅱコリント6:1-13.7:2-3)。わたしたちはキリストで構成されればされるほど、ますます自然に牧養の生活をします。なぜなら、わたしたちの霊的命におけるキリストの構成には、牧養の面があるからです(コロサイ1:27.3:10-11,14.ヨハネ21:15-17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが牧養の生活をするために、キリストで構成してください。わたしたちの心が広くされて、神のすべての民を受け入れることができますように。

 

 

牧養の生活をするために、広くされた心が必要です

 

 使徒たちは、コリント人への第二の手紙第6章3節から10節で描写されているように、完全に円熟し、すべてに適合していたので、彼らの口は信者たちに向かって開かれており、彼らの心は広くされていました。彼らは広くされた心で、すべての信者を、その状態にかかわりなく、受け入れることができました。そして開かれた口で、すべての信者が間違った方向に導き入れられた実際の状況を率直に、自由に語りました。間違った方向に導き入れられ、そらされた信者たちを、神に和解させ、神に連れ戻すには、このような開かれることと広くされることが必要です。(Ⅱコリント6:11、フットノート1)

 

 疑いもなく、[旧約のヤコブの息子である]ヨセフはキリストの完全な予表です。なぜなら、彼は円熟した聖徒の構成された面を描写しているからです。……堕落し、救われ、召され、贖われ、再生されているわたしたちの中には、構成するキリスト以外に完全なものは何もありません。……ヨセフはヤコブの円熟した命におけるキリストの構成を代表します。この面……は完全にキリストを予表します。(「創世記ライフスタディ(7)」、第110編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第26日

(7月訓練 第6週4日)

 

強いられてではなく、自ら進んで神の群れを牧養します

 

Ⅰペテロ5:2

あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい.強いられてではなく、自ら進んで、神にしたがって監督し…… 熱心に監督しなさい。

 

「神の羊の群れを牧養する者たちは、神にしたがって牧養すべきです(Ⅰペテロ5:2.ピリピ1:21前半)。神にしたがって牧養することは、神の性質、願い、方法、栄光にしたがって牧養することであって、わたしたちの好み、興味、目的、個性にしたがって牧養することではありません(Ⅱペテロ1:4.エペソ1:5,9.3:21.ヨハネ14:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の群れは神の所有物であることを感謝します。主よ、わたしたちが強いられてではなく、自ら進んで、神の群れを牧養することができますように。主よ、わたしたちが自分の好み、興味、目的、個性にしたがってではなく、神の選択、願い、意図、好みにしたがって牧養することができますように。

 

 

神の性質、願い、方法、栄光にしたがって牧養します

 

 ペテロの第一の手紙第5章2節の「監督する」という言葉は、留意すること、熱心に見てその状況を注意すること」を意味します。何年も前、わたしは、監督するとはだれが間違っておりだれが正しいか、だれがうまくやっておりだれが下手にやっているかを観察することであると思っていました。後にわたしは、監督するとはおもに、必要を監督するという事柄であるのを認識するに至りました。……牧者は……群れの必要に関心があります。彼の監督は群れを保護し、群れを導き、群れを養うことと関係があります。牧者は監督をして、必要とされるものは何であれ群れに供給します。

 

 ペテロが言うように、長老たちは「自ら進んで、神にしたがって」監督すべきです。神にしたがって監督するとは、神の性質、願い、方法、栄光にしたがってを意味するのであって、人の好み、興味、目的にしたがってではありません。長老は自分の意見、観念、好き嫌いにしたがって監督すべきではありません。むしろ、彼らは神の選択、願い、意図、好みにしたがって監督すべきです。…… 彼らは神の好き嫌いにしたがって監督しなければなりません。(「ペテロの第一の手紙ライフスタディ」、メッセージ32)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第25日

(7月訓練 第6週3日)

 

キリストはわたしたちの魂の牧者です

 

Ⅰペテロ2:25

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、あなたがたの魂の牧者また監督者に立ち返ったのです。

 

詩23:3

彼はわたしの魂を回復し、彼の御名のために、わたしを義の途に導かれます。

 

「わたしたちはみな、わたしたちの魂の牧者としてのキリストを認識し、経験する必要があります(Ⅰペテロ2:25)。わたしたちの魂はとても複雑であるので、わたしたちの霊の中の命を与える霊であるキリストが、わたしたちの魂の中でわたしたちを牧養し、わたしたちの思い、感情、意志を顧み、またわたしたちの問題、必要、傷をすべて顧みてくださることを、わたしたちは必要とします(ヨハネ14:16-17.Ⅰコリント15:45後半.6:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたがわたしたちの魂の牧者であることを感謝します。わたしたちの魂が苦しむので、主の牧養を必要とします。主よ、わたしたちの思いを方向づけ、わたしたちの感情を慰め、わたしたちの意志を導いてください。

 

 

わたしたちの魂が苦しむので、わたしたちの魂が主の牧養を必要とします

 

 キリストは彼の死において、木の上でわたしたちの贖い主でした。今や彼は復活の命において、わたしたちの内側でわたしたちの魂の牧者また監督者です。ですから、彼はわたしたちを導き、命をもってわたしたちに供給することができます。それは、わたしたちが彼の苦難の足跡の中で彼の原型に従うためです(Ⅰペテロ2:21)。……わたしたちの魂は、わたしたちの内側の存在、真のパースンです。わたしたちの主がわたしたちを牧養するのは、わたしたちの魂の牧者また監督者として[25節]、わたしたちの内なる存在の益を顧みることによって、またわたしたちの真のパースンの状態を監督することによってです。……

 

 ペテロは経験から、キリストがわたしたちの魂の牧者であると言うことを知っていました。ですから、ペテロはペテロの第一の手紙第2章25節で、…… ペテロははっきりと、キリストはわたしたちの魂の牧者であると言います。わたしたちの魂が苦しむので、わたしたちの魂が主の牧養を必要とします。わたしたちの体がこのような顧みを必要とするのではなく、おもにわたしたちの霊でもありません。わたしたちの魂(思い、感情、意志)が、牧者としての主を必要とするのです。(「ペテロの第一の手紙ライフスタディ」、メッセージ21)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第24日

(7月訓練 第6週2日)

 

牧養することは常に教えることを伴っています

 

使徒2:42

そして、彼らは使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けた。

 

コロサイ1:28

わたしたちはこのキリストを告げ知らせ、知恵を尽くしてすべての人を戒め、すべての人を教えています.それはわたしたちが、キリストの中で完全に成長したすべての人を、ささげるためです。

 

「牧養することは教えることにかかっています。もしわたしたちが教えることができないなら、牧養することはできません(マタイ28:19-20.9:35-36)。わたしたちの牧養することは常に教えることを伴っているべきであり、わたしたちの教えることは常に牧養することを伴っているべきです(使徒2:42.20:28.コロサイ1:28)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、母親が子供たちを養い顧みて牧養するように、神の子供たちが召会の中で養われ、顧みられていきますように。その中に、牧養することと教えることがありますように。

 

 

牧養するために、すべての兄弟姉妹が機能する必要があります

 

 聖徒たちを牧養するために、…… よく教えなければなりません。教えることによって他の人たちを牧養するとき、わたしたちは彼らに講義をしたり、メッセージしたりしません。そうではなく、わたしたちは彼らに、啓発し養う指示を与えます。エペソ人への手紙第4章によれば、牧する者と教える者は一つの部類です。このことは牧する者になろうとする人はだれでも、教える者でもなければならないことを示します。同様に、よく教える者は、牧する者でもあります。…… 

 

 聖書の中で、牧する者は教える者であり、教える者は牧する者です。母親が子供たちを養い顧みることによって牧養するように、わたしたちも神の子供たちを牧養する必要があります。……どれほど多くの長老たちがいるとしても、彼らはその穴を埋めるのに十分ではありません。牧養するために、すべての兄弟姉妹が機能する必要があります。(リー全集、1977年、第2巻(上)、「すべての年齢層は主の証しのためである」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第23日

(7月訓練 第6週1日)

 

わたしの羊を牧養しなさい

 

ヨハネ21:16

……「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を牧養しなさい」。

 

「神の有機的な救いの中で、父なる神はまず霊なる神によってわたしたちを再生し、次にわたしたちの牧者としての子なる神の中でわたしたちを牧養します。それは、わたしたちが彼の命の中に存在し、成長して、永遠に至るためです(ヨハネ3:6.10:10,14-16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは良い牧者であり、わたしたちを牧養してくださっていることを感謝します。主よ、わたしたちが神聖な命の中で成長して円熟に至り、キリストのからだが建造されますように。

 

 

キリストの天の務めは、神の羊の群れとしての神の召会を牧養します

       

 ペテロは主のこの委託でとても印象づけられたので、彼の第一の手紙で信者たちに、彼らは羊のようにさまよっていたが、今は、彼らの魂の牧者また監督者(キリスト)に立ち返ったと告げました(Ⅰペテロ2:25)。キリストが彼の羊の群れを牧養することは、彼らの外側の事柄、また彼らの内なる存在、彼らの魂を顧みることを含みます。……彼がわたしたちを牧養するのは、わたしたちの内なる存在の益を顧みることにより、またわたしたちの魂、わたしたちの真のパースンの状態を監督することによります。

 

 ペテロは長老たちに、彼らの間の神の羊の群れを牧養するように勧めました。それによって、牧者の長が現れる時、彼ら、忠信な長老たちは、しぼむことのない栄光の冠を受けます(5:1-4)。ペテロの言葉が示しているのは、キリストの天の務めはおもに、神の羊の群れとしての神の召会を牧養することであり、その結果、彼のからだをもたらすということです。(リー全集、1994年-1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第21日

(7月訓練 第5週6日)

 

キリストはこの世で、愛としての神を生かし出す生活をしました

 

Ⅰヨハネ4:16-17

……わたしたちは、神がわたしたちの中で持っておられる愛を知っており、また信じています。神は愛です.愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます。こうして、愛はわたしたちの中で全うされました.それは、わたしたちが裁きの日に大胆さを持つためです.なぜなら、彼がそうであるように、わたしたちもこの世でそうであるからです。

 

「全焼のささげ物の実際としてのキリストはこの世で、愛としての神を生かし出す生活をしました。そして主が今やわたしたちの命であるのは、わたしたちがこの世で同じ愛を生かし出す生活をして、主と同じになるためです(3:14.5:1.2:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神は愛であることを感謝します。主よ、わたしたちが愛の中に住んで、愛としての神を生かし出す生活をすることができますように。主よ、あなたが内側でわたしたちの命となり、外側でわたしたちの生活となりますように。

 

 

愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます

 

 [ヨハネの第一の手紙第4章16節において]愛の中に住むとは、神ご自身である愛をもって人を習慣的に愛する生活をすることであり、それは神がわたしたちの中で表現されるためです。神の中に住むことは、わたしたちの内側の内容、また外側の表現としての神ご自身である命を生きることであり、それはわたしたちが完全に彼と一になるためです。神がわたしたちの中に住まれるのは、内側でわたしたちの命となり、外側でわたしたちの生活となることです。こうして、彼はわたしたちと実際的に一になられます。

 

 わたしたちが愛の中に住むとき神の中に住むと言うことは、わたしたちが住む愛そのものが神ご自身であることを意味します。これは、わたしたちが人に対して持つ愛は神ご自身であるべきであることを示します。神ご自身である愛の中に住むなら、わたしたちは神の中に住み、神はわたしたちの中に住まわれます。(「ヨハネの第一の手紙ライフスタディ」、第35編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第20日

(7月訓練 第5週5日)

 

主イエスは、神のみこころを自分の満足としました

 

ルカ6:12

そのころ、イエスは祈るために山に出かけ、夜を徹して神に祈られた。

 

ヨハネ8:29

わたしを遣わされた方は、わたしと共におられる.彼はわたしを独りにしておかれない.わたしはいつも、彼に喜ばれる事を行なっているからである。

 

「神の新約の務めを遂行することにおいて、全焼のささげ物の実際としての主イエスは、自分からは何も行なわず(ヨハネ5:19)、自分の働きを行なわず(4:34.17:4)、自分の言葉を語らず(14:10,24)、自分の意志によって何も行なわず(5:30)、自分の栄光を求めませんでした(7:18)。彼は決して失望しませんでした。なぜなら、彼はただ神だけに満足していたからです(イザヤ42:4.50:4-5.53:2前半.参照、ヨハネ4:13-14.6:15.マルコ9:7-8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは御父のみこころを行なうために来られ、神のみこころを自分の満足とされました。主よ、わたしたちもあなたを自分の満足とすることができますように。また、あなたが祈りの人であったように、わたしたちをも祈りの人としてください。

 

 

サタンは、主イエスの中では何も持ちませんでした

 

 主はその生涯の間、神を満足とされました。主は、この世に対しては何の望みも持たず、それから何かを受けることを期待しませんでした。……彼は、御父のほかには御子を知っている者はおらず、彼は人からの栄光を受けず、自分自身の意志を行なうために来たのではなく、自分を遣わされた方のみこころを行なうために来たのであり、自分はいつも自分を遣わされた方のみこころを行なったのである、と言われました。わたしたちの主はその全生涯の間、神のみこころを自分の満足とされました。彼はただ神だけを満足とされました。こういうわけで、この世の人、事、物がどれほど変わろうとも、彼は失望されなかったのです。神を自分の満足とする者は、決して失望しません。(ニー全集、第17巻、第21号)

 

 ヨハネによる福音書第14章30節で主は言われました、「この世の支配者が来るからである.彼は、わたしの中では何も持たない」。これが意味するのは、この世の支配者であるサタンが主イエスの中では、何の立場もなく、何の機会もなく、何の望みもなく、何事においても何の可能性も持っていなかったということです。…… これは全聖書の中で特別な文章です。こうして、キリストは祈りの人、神と一であり、継続的に神の臨在の中を生き、苦難や迫害の中で神に信頼し、サタンは彼の中では何も持ちませんでした。(リー全集、1994-1997年、第3巻(下)、「神・人の生活」、第10編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


10月の祈り第19日

(7月訓練 第5週4日)

 

全焼のささげ物は、神が喜んで受け入れてくださる灰になります

 

詩20:3

彼があなたの穀物のささげ物をすべて覚え、あなたの全焼のささげ物を脂肪として受け入れられますように。セラ

 

レビ6:11

それから、彼は衣を脱ぎ、別の衣を着て、その灰を営所の外の清い場所に運び出さなければならない。

 

レビ1:16

……それを祭壇の東側、灰を傾け出す場所に捨てなければならない。

 

「わたしたちは主にわたしたちを燃やしていただかなければなりません。それは、わたしたちが常にささげる全焼のささげ物となって他の人を燃やすためであり、また減少させられて灰となり、新エルサレムとなって、神を表現するためです(詩20:3.レビ1:16.6:8-13.Ⅰコリント3:12前半.啓3:12.21:2,10-11,18-21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは減少させられて無となられました。わたしたちも減少させられて灰となり、三一の神の造り変えの中へともたらされますように。 

 

 

復活の中で、灰は新エルサレムを建造するための尊い材料(金、真珠、宝石)となります

 

 神が全焼のささげ物を受け入れることは、彼がそれを灰にすることです。……詩篇第20篇3節で「受け入れる」と訳されたヘブル語は、実は「灰にする」を意味します。…… 「受け入れる」と訳されたヘブル語は、「灰にする」と訳すことができるだけでなく、「脂肪として受け入れる」、「脂肪にする」、「脂肪となる」とも訳すことができます。神がわたしたちの全焼のささげ物を受け入れるとは、神がそれを灰にするだけでなく、それを脂肪として、すなわち甘く彼を喜ばせるものとして受け入れてくださることも意味します。……

 

 全焼のささげ物が灰になることは、神が満足し、それゆえわたしたちが平安になることを意味します。灰は投げ捨てられたのではありません。そうではなく、それは祭壇の東側に、すなわち灰の場所に置かれました(レビ1:16 6:10)。東側は日の出の方向です。灰を祭壇の東側に置くことは、実は復活を暗示しています。……復活の中で、灰は新エルサレムを建造するための尊い材料(金、真珠、宝石)となります。三つの尊い材料はすべて、灰の造り変えから来ます。わたしたちは灰にもたらされるとき、三一の神の造り変えの中へともたらされるのです。(「レビ記ライフスタディ(1)」、第7、23編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第18日

(7月訓練 第5週3日)

 

全焼のささげ物としてのキリストを経験する生活をします

 

レビ1:3

その人のささげ物が、牛の群れからの全焼のささげ物であるなら、彼は傷のない雄を献げなければならない.それを集会の天幕の入り口で献げて、彼がエホバの御前に受け入れられるようにしなければならない。

 

「神を喜ばせる唯一の生活は、キリストが地上で生きた生活を繰り返す生活です。これは、全焼のささげ物としてのキリストの経験の中でキリストを経験する生活です(レビ1:9.ヨハネ8:29.Ⅱコリント5:9)。「全焼のささげ物」と訳された言葉は、昇っていくものを示します。この昇っていくことはキリストを指しています(レビ1:3,10,14)。地から神に昇っていくことができる唯一のものは、キリストが生きた生活です。なぜなら彼は、神のために絶対的である生活をした唯一の方であるからです(ヨハネ6:38)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたは全焼のささげ物として、完全に神のためであり、また神の満足のためであったことを感謝します。主よ、わたしたちが全焼のささげ物としてのキリストを経験することができますように。わたしたちがキリストの上に手を置き、キリストと一である生活をすることができますように。

 

 

全焼のささげ物は、キリストが神の満足のために絶対的であることを意味します

 

 全焼のささげ物が予表するキリストは、おもに人を罪から贖うことにおける面ではなく、神のために、また神の満足のために完全で絶対的な生活をすること(レビ1:9.ヨハネ5:19、30.6:38.7:18……)、そして彼が、神の民にそのような生活をさせることを可能にする命であることにおける面です(Ⅱコリント5:15.ガラテヤ2:19-20)。全焼のささげ物は神の食物であって、神がそれを享受し、満足するためです(民28:2)。このささげ物は毎日、朝と夕にささげられました(出29:38-42.レビ6:8-13.民28:3-4)。(レビ1:3、フットノート1)

 

 全焼のささげ物は、キリストが神の満足のために絶対的であることを意味します。甘さ、平安、安息をもって神を満足させる方法は、神に対して絶対的である生活をすることです。わたしたちはそのような生活をすることができないので、キリストをわたしたちの全焼のささげ物としなければなりません。わたしたちは彼の上に手を置いて、彼と一体化され、彼と一となり、彼が地上で生きたような生活をすることを願うことを示す必要があります。(「レビ記ライフスタディ(1)」、第8、4、3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第17日

(7月訓練 第5週2日)

 

ミングリングされた霊の中で生きるとき、実際の霊によってキリストを学びます

 

 マタイ11:29

わたしは心の柔和なへりくだった者であるから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい.そうすれば、あなたがたは魂に安息を見いだす。

 

「わたしたちはミングリングされた霊の中で生きるとき、実際の霊によって、イエスにある実際にしたがって、キリストを学んでいます。わたしたちは、わたしたちの鋳型としての彼から学びます。それは、彼の伝記がわたしたちの歴史となるためです。新しい人としてのキリストのからだの生活は、福音書において啓示されているイエスの生活と全く同じであるべきです(ガラテヤ6:17-18.ローマ1:1,9.エペソ4:20-24.ピリピ2:5.マタイ11:29.Ⅰペテロ2:21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちは 主イエスを信じて救われた時に、鋳型としてのキリストの中に入れられました。主よ、ミングリングされた霊の中で生きて、わたしたちの鋳型としてのあなたから学ぶことができますように。

 

 

主イエスの生活にしたがって、キリストを学びます

 

 わたしたちは、主イエスを信じて救われた時、神はわたしたちを鋳型としてのキリストの中に入れられました。この鋳型は四福音書に記録されたイエスの生活、完全に実際にしたがった生活です。実際(真理)は光の輝き、光の表現です。神は光ですから(Ⅰヨハネ1:5)、実際(真理)は神の表現です。福音書に記録されたイエスの生活のあらゆる面は、神の表現です。彼が言い、行なったあらゆることで、彼は神を表現されました。この神の表現は光の輝きです。ですから、それは実際(真理)です。実際にしたがったイエスのこの生活は、神がわたしたちをその中に置かれた模範です。わたしたちはこの鋳型の中で、イエスにあるあの実際にしたがって、キリストを学んできました。

 

 これは、わたしたちが福音書に示された実際にしたがって、すなわち、神の実際、神の真理に完全にしたがった主イエスの生活にしたがって、キリストを学んできたことを意味します。この生活は光の輝きです。光の輝きは実際(真理)であり、実際(真理)は神の表現です。ですから、イエスの生活の中に真理、実際があります。主イエスによって設立された模範の本質は実際です。これは、イエスの生活の本質が実際であることを意味します。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(2)、第46編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第16日

(7月訓練 第5週1日)

 

イエスは神の中で、神と共に、神のためにすべての事を行なう生活をしました

 

エペソ4:20-21

しかしあなたがたは、そのようにキリストを学んだのではありません.もしあなたがたが真に彼に聞き、そして彼の中で、イエスにあるあの実際にしたがって教えられているのであれば。

 

「四福音書は、神が願っている生活の模範、すなわち神を満足させ、神の定められた御旨を成就することができる生活の鋳型を見せています。イエスは、神の中で、神と共に、神のためにすべての事を行なう生活をしました。神はイエスの生活の中におられ、イエスは神と一でした。これが「イエスにあるあの実際」が意味することです。イエスにあるあの実際にしたがってキリストを学ぶとは、キリストの模範の中へと鋳込まれること、キリストのかたちに同形化されることです(ローマ8:28-29.エペソ4:20-21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはバプテスマされたときに、鋳型としてのキリストの中へと置かれたことを感謝します。この実際を、わたしたちの生活の中で適用させてください。イエスにあるあの実際にしたがってキリストを学ぶことができますように。主よ、わたしたちがキリストの模範の中へと鋳込まれて、キリストのかたちに同形化されますように。

 

 

キリストを学ぶとは、鋳型としてのキリストの中へと入れられることを意味します

 

 バプテスマによって、神はわたしたちを、模範であるキリストの中へと入れました。バプテスマされるとは、鋳型としてのキリストの中へと置かれることです。ローマ人への手紙第6章3節とガラテヤ人への手紙第3章27節はいずれも、キリストの中へとバプテスマされることを語っています。キリストの中へとバプテスマされるとは、彼の中へと葬られることです。このバプテスマの墓は模範、鋳型です。神の目に、わたしたちはバプテスマされたとき、この鋳型の中へと入れられました。鋳型の中に置かれることによって、わたしたちは古い人を脱ぎ捨て、そして新しい人を着ました。キリストの中へと葬られることによって、わたしたちはアダムと旧創造から連れ出されました。

 

 わたしたちはバプテスマによって、わたしたちの命また模範であるキリストの中へと入れられました。これが、キリストを学ぶことについて語るとき、なぜパウロが過去時制を使っているかを説明します。わたしたちはバプテスマの中で彼の中へと葬られたとき、キリストを学びました。これは、キリストを学ぶとは鋳型としてのキリストの中へと入れられることを意味します。それは、主が地上におられた間、彼によって設立された模範の中へと鋳込まれることです。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(2)、第46編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第14日

(7月訓練 第4週6日)

 

成就された神・人の団体の生活は、召会の時代を終結させて、キリストの再来をもたらします

 

啓21:10-11

そして彼はわたしを霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが、天から出て神から下って来るのをわたしに見せたが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった。

 

「成就された神・人の団体の生活は、キリストのからだの実際であり、この時代、召会の時代を終結させて、キリストの再来をもたらし、王国の時代にこれらの神・人と共にこの地を取り、所有し、支配します(詩24:1-2, 7-10.72:1-8, 11.啓1:7.14:14.20:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの召会生活がキリストのからだの実際となりますように。主よ、わたしたちが神・人の団体の生活をして、召会の時代を終結させ、キリストの再来をもたらしますように。

  

 

召会時代に円熟しなかった信者は、王国の時代に神の懲らしめる取り扱いによって成就されます

 

 キリストのからだの実際は、一群れの神・人によるそのような生活の集大成、総合計です。このような生活は、キリストのからだの実際であって、この時代、召会の時代を終結させて、キリストの再来をもたらし、王国の時代にこれらの神・人と共にこの地を取り、所有し、支配していただきます。彼らは召会時代に成就され、完全にされ、完成されました。ですから次の時代、王国時代に、彼らはキリストと共に千年の間、王として支配するでしょう(啓20:4-6)。……    

 

 召会時代に成就されず円熟しなかった多くの信者は、王国の時代に神の懲らしめる取り扱いによって成就され円熟するでしょう。……王国の時代の千年間に、神は彼の主権を行使して、これらの愛する人たちを取り扱い、多くの方法で対処されます。それは、彼が彼らを成就して、円熟させることができるためです。千年の終わりに、彼らは備えられて、初期に円熟した者たちに加わって新エルサレムにあずかります。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、「ブレンディングに関する実行的な要点」、第5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第13日

(7月訓練 第4週5日)

 

神・人の生活は、十字架を通してキリストの死に同形化される生活です

 

ピリピ3:10

キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて。

 

ヨハネ11:25

イエスは彼女に言われた、「わたしは復活であり、命である.わたしの中へと信じる者は、たとえ死んでも生きる」。

 

「キリストのからだの実際は、成就された神・人による団体の生活です。彼らは真の人ですが、自分の命によって生きるのではなく、手順を経て究極的に完成された三一の神の命によって生きます。手順を経て究極的に完成された三一の神の属性は、彼らの美徳を通して表現されてきました(Ⅱコリント13:9, 11.エペソ4:12.Ⅰペテロ5:10.Ⅰヨハネ4:12, 17-18)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたは復活であり、命です。主よ、わたしたちが復活の力によって、絶えず十字架につけられた生活をすることができますように。それによってわたしたちが円熟し、成就されて、神・人となりますように。

 

 

キリストの死をわたしたちの生活の鋳型とすることによって、十字架につけられた生活をします

 

 神・人の生活から生かし出されたものだけがキリストのからだです。そうでないと、それは社会の宗教的な活動にすぎず、孔子の道徳的な教えと何の違いもありません。それは命の木ではなく、善悪知識の木に属します。この神・人の生活は……十字架を通してキリストの死に同形化される生活でもあります。このキリストの死に同形化されることは、キリストの復活の力を通してです(ピリピ3:10)。わたしたちは、キリストの死をわたしたちの生活の鋳型とすることによって、絶えず十字架につけられた生活をする者でなければなりません。ただこのような生活をすることによって、わたしたちはキリストのからだの実際を持つことができます。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、第3編)

 

 キリストの死は鋳型であり、パウロはキリストの復活の力によって、自分自身をその死の鋳型の中へと入れ、そこで同形化されました。……復活の力は彼を力づけ、神・人の生活をさせました。主は、わたしたちの多くがそのような者となることを期待しておられます。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第12日

(7月訓練 第4週4日)

 

真の人を十字架の上にとどめて、復活の意味で、彼は神の命を生きます

 

エペソ4:12

それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり。

 

「わたしたちのブレンディングの意義は、キリストのからだの実際です(Ⅰコリント12:24)。この実際は、神格においてではなく命と性質において神とされた、神の贖われた一群れの人々です(ヨハネ1:12-13.ローマ8:16.Ⅱペテロ1:4)。彼らは、自分自身によってではなく、別の命によって生活します。その命とは、彼らの中へと入って、彼らをご自身の住居また住まいとする、手順を経て究極的に完成された三一の神の命です(Ⅱコリント13:14.ヨハネ14:23.エペソ2:21-22)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはあなたの御名の中へと信じて、神の子供たちとなったことを感謝します。わたしたちが養われ、命において成長し、円熟へと至るように歩ませてください。そして、地方召会の中で建造され、キリストのからだを建造することができますように。

 

 

わたしたちは養われ成就されて、命において成長し、円熟する必要があります

 

 再生において人は神・人とされますが、円熟した神・人ではありません。……わたしたちは再生されましたが、わたしたちの多くは依然として……小さな赤子のようです。わたしたちは養われ成就されて、命において成長し、円熟する必要があります。召会の働きにおける手続きは、生み、養い、そして教え、成就して、聖徒たちが円熟して地方召会の中で建造され、キリストのからだを建造することです。……

 

 イエスは真の人でしたが、人の命によってではなく神の命によって生きました。……新約で述べられている十字架は、カルバリ山での木の十字架の上で起こりました。しかし、キリストは物質の十字架につけられる前に、三十三年半の間、毎日、十字架につけられていたことを、あなたは認識しなければなりません。イエスは人、真の人ではなかったでしょうか? そうです。しかし、彼はその真の人によって生きませんでした。そうではなく、彼はその真の人を十字架の上にとどめました。そして、復活の意味で、彼は神の命を生きました。神の命とそのすべての属性は、この神・人イエスの内側で生き、この神・人の美徳として表現されました。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、「ブレンディングに関する実行的な要点」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第11日

(7月訓練 第4週3日)

 

ブレンディングは、キリストのからだの実際の中へともたらします

 

Ⅰコリント1:2

コリントに在る神の召会へ、すなわち、キリスト・イエスの中で聖別された者たち、召された聖徒たち、……

 

Ⅰコリント12:27

今や、あなたがたはキリストのからだであり、そして各自は肢体なのです。

 

 「ブレンディングの目的は、わたしたちすべてをキリストのからだの実際の中へともたらすことです(ローマ12:5.Ⅰコリント12:12-13.エペソ2:16.4:12.コロサイ2:19)。わたしたちは手続きとしての地方召会の中にいて、キリストのからだの実際の中へともたらされる必要があります(Ⅰコリント1:2.12:27)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちは手続きとしての地方召会の中にいることを感謝します。主よ、わたしたちすべてをキリストのからだの実際の中へともたらしてください。今、手続きとしての四つの段階、生むこと、養うこと、教えること(成就すること)、建造することにおいて、わたしたちをさらに前進させてください。

 

 

召会の働きの手続きは、生む、養う、教える(成就する)、建造する四つの段階から成っています

 

 今日の主の回復における召会の働きの定まった手続きは、四つの段階から成っています。それは生むこと、養うこと、教えること(成就すること)、建造することです。生むことは、罪人が救われ、再生されて、キリストの肢体となるようにすることです(Ⅰコリント4:15後半.マタイ28:19)。養うことは、新しい信者を養って、神聖な命の中で成長させることです(Ⅰテサロニケ2:7.ヨハネ21:15、17)。教えることは、聖徒たちを成就して、彼らが円熟して建造されるようにすることです(マタイ28:20前半.エペソ4:12-16)。生み、養い、成就する段階はすべて、別のさらに高い段階、すなわち、諸地方召会の中で(啓1:4前半、11)、キリストのからだを建造するためです(エペソ4:12後半、16)。……

 

 主の回復の最高峰は、真に、実際に、真実に神のエコノミーを完成することができます。それは神が物質的に多くの地方召会を生み出すためではなく、有機的なからだを生み出すためです。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、「ブレンディングに関する実行的な要点」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第10日

(7月訓練 第4週2日)

 

召会はブレンディングされて一つパン、一つからだとなります

 

Ⅰコリント10:17

一つパンであるからには、わたしたちは数が多くても一つからだなのです.それは、わたしたちがみなこの一つパンにあずかるからです。

 

ヨハネ12:24

まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。

 

「わたしたちは、麦全体のままであるべきではありません。わたしたちは砕かれ、ひかれてきめの細かい小麦粉となり、他の人たちとブレンディングされて一つパンとなることができなければなりません。このパンはキリストのからだです(Ⅰコリント12:12-13, 27.エペソ2:16.1:22-23)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたは 一粒の麦として地に落ちて死なれ、 多くの麦粒を生み出されました。多くの麦粒はひかれて粉となり、一つパン、キリストのからだとなることを感謝します。主よ、わたしたちが召会生活の中で砕かれ、ひかれ、ブレンディングされますように。

 

 

召会はきめの細かい小麦粉からできているパン、輪型の平らなパンです

 

 旧約聖書には、神のエコノミーを成就するためのブレンディングの予表があります。……召会が一つパンである[Ⅰコリント10:17]というパウロの思想は、彼自身の発明ではありませんでした。そうではなく、それは旧約聖書から取られました。レビ記第2章4節での穀物のささげ物は、きめの細かい小麦粉と油を混ぜ合わせて作られた輪型の平らなパンから成っていました。……それがブレンディングです。パウロは、召会はきめの細かい小麦粉からできているパン、輪型の平らなパンであると告げています。このきめの細かい小麦粉は小麦の麦粒から来ており、小麦の麦粒は一粒の麦から来ており、一粒の麦はキリストです。

 

 ヨハネによる福音書第12章24節は、キリストは一粒の麦であって、地に落ちて死に、復活の中で成長して多くの麦粒、すなわちわたしたち、彼の信者を生み出されたと言っています。わたしたちは多くの麦粒であって、ひかれてきめの細かい小麦粉となり、召会という輪型の平らなパン、パンを作ります。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、「ブレンディングに関する実行的な要点」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第9日

(7月訓練 第4週1日)

 

ブレンディングは、高く深いだけでなく、奥義的です

 

Ⅰコリント12:24

……神は欠けている肢体にさらに豊かな尊さを与えて、体を調和させられました。

 

Ⅰヨハネ1:7

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩くなら、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めます。

 

「神は……体を調和(ブレンディング)させられました」(Ⅰコリント12:24)。ブレンディングは、高く深いだけでなく、とても奥義的です(24節)。「ブレンディングされる」という言葉は、「調整される」、「調和一致される」、「調節される」、「ミングリングされる」ことを意味し、それは区別を失うことを暗示します。ブレンディングが意味することは、わたしたちがいつでも立ち止まって、他の人と交わりを持つべきであるということです(使徒2:42.Ⅰコリント1:9.Ⅰヨハネ1:3, 7)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。また、キリストのからだを愛します。わたしたちがいつでも立ち止まって、他の人と交わりを持つことができますように。主よ、わたしたちが調和一致させられるために、十字架を経過して、わたしたちの間の区別を失うまでになりますように。

 

 

神は体を調和(ブレンディング)させられました

 

 神はからだを調和させ(ブレンディングし)、からだを調整し、からだを調和一致させ、からだを調節し、からだをミングリングされました。…… 一人の兄弟の区別は性急で、他の人の区別は緩慢であるかもしれません。しかしからだの生活の中で、緩慢さは消え、性急さは取り除かれます。そのような区別はすべて去ってしまいます。神はすべての異なる人種と色のすべての信者を調和させられました。…… ただ神だけがこれをすることができます。夫と妻は彼らの区別を失ってはじめて、結婚生活において調和一致を持つことができます。

 

 からだの生活の中で調和一致させられ、ブレンディングされ、調整され、ミングリングされ、調節されるために、わたしたちは十字架を経過し、その霊により、キリストのからだのためにキリストを他の人に分与しなければなりません。[わたしたちは]、断ち切られることを学ばなければなりません。…… さらに、わたしたちが行なうことは、わたしたちの益のため、またわたしたちの味わいにしたがったものではなく、召会のためであるべきです。わたしたちがこれらの点を実行する限り、ブレンディングを持つでしょう。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第7日

(7月訓練 第3週6日)

 

新エルサレムは、神性と人性とが共にブレンディングされ、ミングリングされて、一つの実体となっている構成体です

 

啓21:2,18-19

わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。…… 城壁は碧玉で築かれ、都は純金であって、透き通ったガラスのようであった。都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた.……

 

「最終的に、三一の神と贖われた人性は、ミングリングされ、ブレンディングされ、建造されて一つの実体、すなわち新エルサレムとなります(啓21:2,10)。新エルサレムが建造されるのは、神がご自身を人の中へと構成し込んで、人を命、性質、構成において神と同じにし、神と人が一つの団体の実体となることによってです(啓21:18-21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。新エルサレムは神と人、また人と神から成る相互の住まいです。主よ、わたしたちが命の水の川としての三一の神を飲み、命の木としての主を食べて、新エルサレムとしての花嫁の用意を整えることができますように。

 

 

三一の神と贖われた人性は、ミングリングされ、ブレンディングされ、建造されて、新エルサレムとなります

 

 新エルサレムは、神性と人性とが共にブレンディングされ、ミングリングされて、一つの実体となっている構成体です。すべての構成要素は同じ命、性質、構成を持っており、それゆえに一人の団体の人です。この両者、神と人、人と神は、共にブレンディングされ、ミングリングされることによって、共に建造されます。これが神の建造の完了、究極的完成です。わたしたちはみなこのビジョンを見る必要があります。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第30編)

 

 新エルサレムは神聖な建造の[一つの]面です。わたしたちは、その霊、すなわち命の水の川としての流れる三一の神を飲み、キリスト、すなわち豊富で新鮮な供給を伴う命の木としての、勝利を得た獅子・小羊を食べることによって、その金のベースとしての父なる神、その真珠の門としての子なる神、その宝石の城壁のための霊なる神をもって、新エルサレムを着飾り、究極的に完成する必要があります。(リー全集、1994年-1997年、第5巻(上)、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第6日

(7月訓練 第3週5日)

 

神の要素がわたしたちの人性の中へと構成し込まれます

 

サムエル下7:14

わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。……

 

ローマ1:3-4

彼の御子に関するものです.この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです。

 

 「神の要素がわたしたちの人性の中へと構成し込まれるとき、わたしたちは神格においてではなく命と性質において神となります。人の要素が神の中へと構成し込まれるとき、神は人と成ります。これが、新約で啓示されている建造です(エペソ2:21.4:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、神の要素をわたしたちの人性の中へと構成し込んでください。主よ、わたしたちが神格においてではなく命と性質において神となるというビジョンが成就しますように。このビジョンを見て、経験し享受させてください。

 

 

神の建造は、神聖な要素と人の要素を互いの中へと構成し込むことです

 

 サムエル記下第7章で啓示されていることは、ローマ人への手紙第1章3節から4節でパウロによって解釈されています。彼はそこで、ダビデの子孫であるキリストが、神の御子と明示されたと告げています。……これが、神が人と成ったのは、人が神格においてではなく命と性質において神となるためであるという奥義です。……神はキリストの中で、人の中へと構成し込まれ、人は神の中へと構成し込まれ、神と人は共にミングリングされて一つの実体となりました。それは神・人と呼ばれています。

 

 神はキリストの中でご自身を人の中へと構成し込んでおり、ご自身を人の要素とならせます。こうして、わたしたち人は神聖な要素で構成されます。これが意味するのは、神聖な要素がわたしたちの人の要素の中へと建造し込まれ、二つの要素が互いにミングリングされるということです。神の神聖な要素がわたしたちの中へと構成し込まれるだけでなく、人の要素が神の中へと構成し込まれます。神聖な要素がわたしたちの人性の中へと構成し込まれるとき、わたしたちは神格においてではなく命と性質において神となります。人の要素が神の中へと構成し込まれるとき、神は人と成られます。これが新約で啓示されている建造です。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第31編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第5日

(7月訓練 第3週4日)

 

手順を経て究極的に完成された三一の神を他の人たちの中へと供給します

 

エペソ3:17

またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ。

 

Ⅰコリント3:12

ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら。

 

「主の回復におけるわたしたちの働きの極めて重要な事柄は、建造する神と建造された神を供給することです(マタイ16:18.エペソ2:21-22.3:17前半)。わたしたちは、一つの事を行なう必要があります。すなわち、手順を経て究極的に完成された三一の神を他の人たちの中へと供給して、彼がご自身を彼らの内なる人の中へと建造し込むことができるようにすることです。わたしたちは、主がわたしたちにこのように働くことを教えてくださるよう祈る必要があります(Ⅱコリント13:14.Ⅰコリント3:9前半,10,12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはご自身をわたしたちの中へと造り込むことを願っておられます。主よ、わたしたちが手順を経て究極的に完成された三一の神を他の人たちに供給することができますように。そして、金、銀、宝石をもって召会を建造することができますように。

 

 

手順を経て究極的に完成された三一の神をもって召会を建造します

 

 コリント人への第一の手紙第3章12節でパウロは、二種類の建造の材料があると言います。それは、人に属してこの世的なものである木、草、刈り株と、尊い宝と造り変えられた材料である金、銀、宝石です。もしわたしたちが木、草、刈り株をもって、すなわち天然の背景や天然の生活の方法から来た到達をもって召会を建てるなら、召会を損ないます(17節)。

 

 わたしたちは召会を、金、銀、宝石をもって建てるべきです。これはそれぞれ、神、キリスト、その霊を表徴します。これらの材料をもって召会を建造することは、手順を経て究極的に完成された三一の神をもって召会を建てることです。わたしたちが手順を経て究極的に完成された三一の神をもって召会を建造するとき、実は建造しているのはわたしたちではありません。神がわたしたちを通して建造しており、わたしたちを手段として用いて、ご自身を人の中へと分与し、伝達しておられるのです。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第24、30編」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第4日

(7月訓練 第3週3日)

 

キリストはわたしたちの心の中に深くご自身のホームを造っておられます

 

エペソ3:14,16-17,19

こういうわけで、わたしは御父に向かってひざをかがめて祈ります。…… どうか御父が……、力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.…… あなたがたが満たされて、神の全豊満へと至るように。

 

「エペソ第3章にある使徒の祈りは以下の事を啓示しています。神の永遠のエコノミーを完成するためにわたしたちが必要とする事は、御父が彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、わたしたちを内なる人の中へと増強し、キリストがご自身をわたしたちの心の中へと建造し込み、わたしたちの全存在を占有し、わたしたちが満たされて、神の全豊満へと至るということです(エペソ3:14-19)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちを内なる人の中へと増強してください。主よ、あなたの願いは、わたしたちの心のあらゆる部屋を占有することです。そして、あなたがわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように。 主よ、わたしたちが満たされて、神の全豊満へと至ることができますように。

 

 

キリストはわたしたちの心の中にご自身を住まわせておられます

 

 キリストがわたしたちの心の中に彼のホームを造ることができるために、わたしたちはキリストの中に根ざします(エペソ3:16-19)。エペソ人への手紙第3章において使徒は、父なる神が信者たちを、霊なる神を通して彼らの内なる人の中へと増強されるよう、また子なる神、キリストが彼らの心の中にご自身のホームを造ることができるよう、すなわち、彼らの全存在を占有し、彼らが満たされて神の全豊満へと至るために祈ります(14-19節)。「ご自身のホームを造る」という句は、ギリシャ語でただ一つの言葉、「カトイケオー(katoikeo)」です。このギリシャ語の基本的な意味は、住まいに落ち着くこと、住む場所を造ることで、[この言葉の接頭辞である「カタ(kata)」は、「下に」を意味します]。

 

 [わたしたちの神は三一の神です]。父なる神は霊なる神を通して彼の権威を行使して、わたしたちを内なる人の中へと増強しておられます。それは子なる神がわたしたちの心の中深くに彼のホームを造るためです。……聖書は、キリストがわたしたちの中におられるだけでなく(コロサイ1:27)、彼がまたわたしたちの心の中に深くご自身のホームを造っておられると教えています。主はわたしたちの心の中にご自身を住まわせておられます。(「神の新約エコノミー(下)」、第39章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第3日

(7月訓練 第3週2日)

 

再生された信者は神の耕された地であり、神の建造のために尊い材料を生み出します

 

Ⅰコリント3:12

ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら。

 

マタイ13:23

しかし、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて理解する人である.こういう人が必ず実を結び、ある人は百倍、ある人は六十倍、ある人は三十倍を生み出すのである。

 

 「キリストの中で神の命をもって再生された信者は、神の耕された地、神の新創造における農場であり、キリストを成長させ、神の建造のために尊い材料を生み出します(Ⅰコリント3:9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神聖な種としての霊なるキリストが、わたしたちの霊の中へとまかれたことを感謝します。わたしたちは神の耕された地、神の新創造における農場です。主よ、わたしたちが種としてのキリストを成長させ、神の建造のために尊い材料を生み出すことができますように。

 

 

召会の建造は、わたしたちの内側の神聖な種の成長によって起こります

 

 これは、マタイによる福音書第13章の種まく者のたとえによって例証されています。種は土壌の中へとまかれ、土壌の中の栄養分をもって成長します。ですから、この種はそれ自身だけで成長するのではありません。種はそれ自身と、土壌の中の栄養分をもって成長します。その結果、産物は、種と土壌の両方の要素からの構成です。ここでわたしたちは、重要な霊的原則を見ます。成長するために、種は良い土壌の中へとまかれなければなりません。もし種が砂や石地へとまかれたなら、成長しないでしょう。なぜなら砂も石も、必要な栄養分を供給することができないからです。

 

 マタイによる福音書第13章で、種は神性であり、土壌とその養分は人性です。わたしたちは内側に神によって創造されたある養分を持っています。それは、主がわたしたちの中へと入って来て、わたしたちの中で成長するための備えです。神は人の栄養分を持つ人の霊を創造されました。こういうわけで、人は主を信じて、彼を受け入れることができるのです。わたしたちの中へとまかれた種は、三一の神の具体化としてのキリストです。……わたしたちが栄養分を供給すればするほど、種はますます早く成長し、ますます繁茂します。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第30編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り第2日

(7月訓練 第3週1日)

 

神はキリストをわたしたちの内在的な構成の中へと建造し込みます

 

サムエル下7:12-14

あなたの日が満ちて、あなたが父祖たちと共に眠るとき、わたしはあなたの身から出るあなたの子孫をあなたの後に起こし、彼の王国を堅く立てる。彼がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の座を永遠に堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。……

 

「サムエル記下第7章12節から14節前半は、予表を通して一つの予言を明らかにしており、それがわたしたちに示しているのは、神がキリストをわたしたちの内在的な構成の中へと建造し込んでくださることを、わたしたちが必要としており、それによってわたしたちの全存在がキリストで再構成されるということです(マタイ16:18.エペソ3:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがキリストを食べ、飲み、呼吸することによって、キリストを享受することができますように。そして、霊的消化と新陳代謝によって、わたしたちを造り変えてください。わたしたちの全存在がキリストで再構成されて、キリストのからだの肢体となることができますように。

 

 

わたしたちの全存在がキリストで再構成されます

 

 わたしたちがキリストを食べ、飲み、呼吸することによって、……キリストを享受するとき、新陳代謝の過程、すなわち、霊的消化と新陳代謝がわたしたちの内側で起こります。この新陳代謝の過程を通して、キリストがわたしたちの存在の中へと構成し込まれます。この構成が建造です。ですから、キリストはご自身をわたしたちの中へと、わたしたちの内なる構成として建造し込んでおられるのです。そのような建造の結果は、わたしたちがとても特別な種類の人々、すなわちキリストのからだの肢体となることです。

 

  召会をキリストのからだとして、霊的な新陳代謝の過程を通して有機的に建造することは、実はエホバがサムエル記下第7章12節から14節前半において、予表の方法でダビデに予言していた事です。この過程を通してのみ、人類は造り変えられて神の子たちとなることができます。この過程を通してのみ、人性に属するもの(人の子孫)は神聖なもの(神の子たち)になることができます。神はダビデに、彼の子孫が神の子となると告げたとき、予表においてこれに関して神はダビデに予言されたのです。これは、人の子孫が神聖な子となることを示します。これは今日、わたしたちが経験していることです。(「サムエル記上、下ライフスタディ」、第26編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)