朝ごとの食物

クリスチャン生活( メモリアルデー特別集会 第2週3日~第6週6日)


8月の祈り第31日

(メモリアルデー特別集会 第6週6日)

 

彼らは彼の御顔を見る……主なる神が彼らを照らす

 

啓21:23

都の中では、太陽も月も輝く必要がない.神の栄光がそれを照らし、小羊がそのともし火だからである。

 

22:4-5

そして彼らは彼の御顔を見る.また彼の御名が彼らの額にある。……彼らにはともし火の光も太陽の光も必要がない.主なる神が彼らを照らすからである.そして彼らは永遠にわたって王として支配する。

 

「神と小羊の御顔を見ることは、永遠において神に贖われた者が享受する三一の神の祝福となります(啓22:4前半)。神ご自身は小羊の中でわたしたちを照らし、わたしたちは彼の栄光の輝きの下で永遠に生きます(啓22:5後半.21:23)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の建造の究極的な完成である新エルサレムを賛美します。主なる神がわたしたちすべてを照らし、今日の召会生活が光としての神をもって輝きますように。

 

 

神と小羊の御顔を見ることは、神に贖われた者が享受する三一の神の祝福です

 

 啓示録第22章4節は言います、「そして彼らは彼の御顔を見る」。これ……は神に贖われた者にとって、永遠における祝福です。この節の「彼」は、神と小羊の両方を指しています。彼の御顔を仰ぎ見るとは、神と小羊の御顔を見ることを意味します。主なる神によって照らされることは[5節]、神に贖われた者に対する永遠におけるもう一つの祝福です。わたしたちには、人によって作られた光であるともし火も、神によって創造された光である太陽も必要ありません。神ご自身がわたしたちを照らし、わたしたちは彼の輝きの下で生きるでしょう。(「啓示録ライフスタディ(3)」、第66編)

 

 啓示録第22章5節は、主は彼の聖徒たちを照らすと言います。将来、神の無限の栄光は新エルサレムにおいて、ともし火としてのキリストをもって、光として照らし出します。

 

 啓示録第21章11節によれば、聖なる都には神の栄光があります。ここで神の栄光は神の表現、表現された神です。神が現されるとき、それは栄光です。わたしたちはこの栄光のために定められ、この栄光へと召されました(Ⅰコリント2:7.Ⅰペテロ5:10.Ⅰテサロニケ2:12)。(「新約の結論(25)」、メッセージ436)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第30日

(メモリアルデー特別集会 第6週5日)

 

光の子供たちとして歩きなさい

 

エペソ5:8-9

なぜなら、あなたがたはかつては暗やみでしたが、今は主の中で光であるからです.光の子供たちとして歩きなさい.(光の実は、すべての善と義と真実の中にあるからです)。

 

「神は光であるので、神の子供たちであるわたしたちは光の子供たちです(Ⅰヨハネ1:5.エペソ5:8.ヨハネ12:36)。わたしたちは光の子供たちであるだけではありません。わたしたちは光そのものです。わたしたちが光であるのは、わたしたちが主の中で神と一であるからです(マタイ5:14.Ⅰヨハネ1:5)。もしわたしたちが光の子供たちとして歩くなら、わたしたちはエペソ第5章9節で描写されている実を結びます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちはかつては暗やみそのものでしたが、今や、光の子供たちとなったことを感謝します。わたしたちが光の子供たちとして歩いて、すべての善と義と真実の中にある光の実を結ぶことができますように

 

 

善、義、真実にある光の実は、三一の神と関係があります

 

 わたしたちは、かつては暗かっただけでなく、暗やみそのものでした。今や、光の子供たちであるだけでなく、光そのものです(マタイ5:14)。光は神であるように、暗やみはサタンです。わたしたちが暗やみであったのは、サタンと一であったからです。今やわたしたちが光であるのは、主の中で神と一であるからです。(エペソ5:8、フットノート1)

 

 善は、光の実の性質です。義は、光の実を生み出す方法、手続きです。真実は実際、すなわち光の実の真の表現(神ご自身)です。…… 善、義、真実にある光の実は、三一の神と関係があります。善は父なる神を指します。なぜなら、唯一善である方は神だからです(マタイ19:17)。義は子なる神を指します。なぜなら、キリストは神の義なる手続きにしたがって、神の定められた御旨を成就されたからです(ローマ5:17-18、21)。真実は霊なる神を指します。なぜなら、彼は実際の霊であるからです(ヨハネ14:17)。真実はまた、光の中にある実の表現をも指します。(エペソ5:9、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第29日

(メモリアルデー特別集会 第6週4日)

 

栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきます

 

Ⅱコリント3:18

しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。

 

「主の栄光は、復活し昇天したキリストの栄光です。このキリストは、命を与える霊であって、わたしたちの中に住み、彼ご自身と、彼が達成し、到達し、獲得したすべてをわたしたちの実際とならせて、わたしたちが彼と一になり、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられるようにします。(ルカ24:46.ヘブル2:9.Ⅱコリント3:18.ローマ8:29)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えてくださることを感謝します。命を与える霊がわたしたちの中に住み、彼ご自身と、彼が達成し、到達し、獲得したすべてをわたしたちの実際とならせてくださいますように。

 

 

わたしたちの思いが新しくされることによって、彼のかたちへと変えられていきます

 

 主の栄光を見つめることは、わたしたち自身が主を見ることです。主の栄光を反映することは、他の人がわたしたちを通して主を見ることができるようにすることです(Ⅱコリント3:18、フットノート4)。 わたしたちは、主の栄光を見つめ、また反映する鏡のようです。このために、わたしたちの顔のおおいは完全に取られるべきです。それによってわたしたちはよく見て、正しく反映します(Ⅱコリント3:18、フットノート5)

 

 わたしたちが主の栄光をおおいのない顔をもって、見つめ、そして反映するとき、彼はご自身の要素と彼が成し遂げたものの要素を、わたしたちに注入されます。こうして、わたしたちは彼の命の力によって、彼の命の本質をもって、新陳代謝的に造り変えられ、彼の命の形を持つようになります。これは、おもにわたしたちの思いが新しくされることによって(ローマ12:2)、彼のかたちへと変えられていくことです。「造り変えられていきます」とは、わたしたちが造り変えの過程の中にあることを示します(Ⅱコリント3:18、フットノート7)。同じかたちへと造り変えられるとは、復活して栄光を現したキリストに同形化されること、彼と同じようにされることです(ローマ8:29)。(Ⅱコリント3:18、フットノート8)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第28日

(メモリアルデー特別集会 第6週3日)

 

わたしたちはこの宝(栄光のキリスト)を土の器の中に持っています

 

Ⅱコリント4:7

しかし、わたしたちはこの宝を土の器の中に持っています.それは、この卓越した力が神のものであって、わたしたちからではないことが現れるためです。

 

ピリピ4:13

わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです。

 

「キリストの栄光の福音の輝きを通して、栄光のキリストは卓越した宝として信者たちに受け入れられます。今や、三一の神の具体化また表現であるキリストの輝く実際は、わたしたちの内側の宝です(Ⅱコリント4:6-7)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。尊い宝としてのキリストを、わたしたちという土の器の中に持っていることを感謝します。神がわたしたちの心の中を照らすことによって、栄光のキリストがもたらされることを感謝します。この卓越した力が神のものであって、わたしたちからではないことを経験することができますように。

 

 

三一の神の表現であるキリストの輝く実際が、わたしたちの内側の宝です

 

 わたしたちが福音を宣べ伝えるとき、輝き、照らしがあるべきです。……これが意味するのは、わたしたちが宣べ伝えているとき、わたしたちが語っている人たちの心の中へと、神が照らすということです。 …… このように宣べ伝えることは、単に福音のある事実だけでなく、栄光の福音を提示することです。栄光の福音を受け入れる人たちは、彼らの中へと分与された尊い宝としてのキリストを持ちます。そのとき、彼らもわたしたちと同じように、この宝を内容とする土の器になります[参照、Ⅱコリント4:7]。

 

 神がわたしたちの心の中を照らすことは、わたしたちの中へと宝、すなわち、栄光のキリストをもたらします。栄光のキリストは、神の具体化であり、わたしたちの命またすべてとなります。わたしたちの心の中の照らしのゆえに、わたしたちはこの宝、すなわち、すばらしい、尊い、驚くべき宝を持ちます。栄光のキリスト、わたしたちの中に照らし込まれたまさにキリストの中にある神です。……貴重な宝は、価値のない器の中に入っています! これは価値のない器を、貴重な務めを持つ新契約の奉仕者としました。これは、復活の中の神聖な力によって達成されました。卓越した力は、確かに神からのものであって、わたしたちからではありません。(「新約の結論(19)」、メッセージ317)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第27日

(メモリアルデー特別集会 第6週2日)

 

イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を輝かせます

 

Ⅱコリント4:6

なぜなら、「暗やみから光が照りいでよ」と言われた神は、わたしたちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださったからです。

 

「神がわたしたちの心の中を照らした結果は、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を輝かせるということ、すなわち、わたしたちを照らして、わたしたちにキリストの福音において神の栄光を認識させるということです(Ⅱコリント4:4,6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を賛美します。主よ、わたしたちの心の中を照らしてください。そして、キリストの栄光の福音の光が、わたしたちの中へと浸透し、輝き出ますように。

 

 

キリストの栄光の福音の光は、わたしたちを通して輝き出ます

 

 キリストの栄光の福音は、まずわたしたちの中へと輝き、それからそれはわたしたちの中から輝き出ます。栄光がわたしたちの中で輝けば輝くほど、ますますそれはわたしたちの存在の中へと入り込み、それを浸透します。最終的に、内なる栄光はわたしたちの内側の全存在を使い尽くし、飲み尽くします。それから、キリストの栄光の福音の光はわたしたちを通して輝き出ます。そのような輝きは、教えの方法によって起こるのではありません。それは、キリストを経験することを通してのみ起こり得ます。キリストご自身は神の栄光であり、神の現れです。

 

 わたしたちは、キリストがわたしたちの存在の深みの中へと輝いたことのゆえに主を賛美します。今や彼はわたしたちの内側で輝き、わたしたちの内側の存在の至るところを照らします。ですから、わたしたちは、内側の栄光としてのキリストの内なる輝きに注意を払う必要があります。神のエコノミーの目標とは、わたしたちがみな彼の栄光を輝かし出すことです。わたしたちがそのような輝きの下にあるとき、キリストはご自身をもってわたしたちに浸透します。そしてわたしたちはキリストの甘さを享受し、彼はわたしたちの中に住んでわたしたちの命とわたしたちのパースンとなられます。(「新約の結論(19)」、メッセージ317)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第26日

(メモリアルデー特別集会 第6週1日)

 

この時代の神であるサタンは、信じない者たちの思いや思考をくらまします

 

Ⅱコリント4:4

この時代の神は、……信じない者たちの思いをくらましてしまい、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、彼らの上に照らさせないようにしています。

 

「この時代の神であるサタンは、信じない者たちの思いや思考をくらましてしまい、キリストの栄光の福音の輝きを、彼らの心の中に照らさせないようにしています。キリストは、神のかたちであり、神の栄光の輝きです(ヘブル1:3.Ⅱコリント4:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の明確なかたちであることを賛美します。主よ、サタンがわたしたちの思いをくらまして、キリストの栄光の福音を覆ってしまうことがないように、わたしたちを守ってください。主よ、わたしたちが自分の観念を下ろして、主だけを礼拝することができますように。

 

 

キリストの福音とは、神の栄光がわたしたちの心の中で輝き、照射し、照らす福音です

 

 この時代の神とはサタンです。思いがくらまされている人たち、あるいは覆われている人たちは、自分たちは何も礼拝していないと思っています。実は彼らの神はサタンです。…… 今日ほとんどすべての人は、原始的であれ、高い教養のある人であれ、この時代の神によって思いがくらまされています。わたしたちは、おおいについてのこのような言葉を自分自身に適用する必要があります。わたしたちが警戒していることは極めて重要です。なぜなら、キリストご自身でないものは何であれ、こうかつな者であるサタンによっておおいとして用いられることがあり得るからです。

 

 わたしたちが神の御子の啓示を受けたいなら、わたしたちの観念を下ろす必要があります。あらゆる観念は、霊的であれ、肉欲的であれ、おおいです。啓示を持つために、わたしたちは観念を下ろす必要があります。…… わたしたちが御言を読むときに自分の観念を下ろすなら、おおいのない顔をもってそれを読みます。そのとき、光は主観的にわたしたちの中へと照らし込みます。(「新約の結論(20)」、メッセージ324)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第24日

(メモリアルデー特別集会 第5週6日)

 

奉仕者は建造する者であり、金、銀、宝石をもって建てます

 

Ⅰコリント3:2,12

わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物を与えませんでした.なぜなら、あなたがたは、まだそれを受けることができなかったからです…… ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら。

 

「命の奉仕者は養う者です。養うことは命の事柄です。それは教えることとは異なります。教えることは知識の事柄です。乳を飲ませ、あるいは食物を食べさせることは、人を養うことです(Ⅰコリント3:2)。使徒がコリントの信者たちに供給したのは乳であり、それは彼らを養ったはずです。命の奉仕者は建造する者であり、金、銀、宝石をもって建てます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。召会生活の命の供給としての使徒たちの健康な教えを感謝します。主よ、わたしたちが乳を飲み、固い食物も食べて成長することができますように。主よ、わたしたちが真の命の経験をして、キリストの中で完全に成長した人となり、神の家の建造のための尊い材料となりますように。

 

 

キリストの中で完全に成長した人、金、銀、宝石となり、神の家の建造のための尊い材料となります

 

 正常な召会生活を実行するために、わたしたちは真の命の経験を必要とします。……種まく者、植える者、水を注ぐ者、生む者、養う者である新しい契約の奉仕者は、最終的に建造する者となるべきです。……パウロは自分自身を、他の人たちが建てるために唯一の土台であるキリストを据えた「賢い建築家」として語っています[Ⅰコリント3:10-11]。それから……パウロは、その土台の上に金、銀、宝石をもって建てることについて語っています[12節]。わたしたちが種をまき、植え、水を注ぎ、生み、養う働きを遂行するとき、キリストは信者たちの中で成長します。……

 

 信者たちは日ごとに成長する間に造り変えられます(Ⅱコリント3:18、ローマ12:2)。……その結果、信者たちは成熟した植物、すなわち、キリストの中で完全に成長した人(啓14:4、15、コロサイ1:28)となるだけでなく、また金、銀、宝石、すなわち神の家の建造のための尊い材料となります(啓21:2-3、11、18-22)。(リー全集、1970年、第1巻(下)、「その霊と召会」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第23日

(メモリアルデー特別集会 第5週5日)

 

わたしは植え、アポロは水を注ぎました

 

Ⅱコリント3:6

神はまたわたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました.それは、文字ではなく、霊の奉仕者です.……

 

Ⅰコリント3:6-7

わたしは植え、アポロは水を注ぎました.しかし、神が成長させてくださったのです。ですから、植える者も水を注ぐ者も取るに足りません.重要なのは、成長させてくださる神です。

 

「わたしたちが命の流れとしてのキリストを享受することは、わたしたちが種まく者、植える者、水を注ぐ者、生む者、養う者、建造する者となり、命を供給して、神の驚くべき有機的な建造、すなわち神の壮大な家のためであることです(Ⅱコリント3:6)。命の奉仕者は種まく者であり、霊の種をまきます。命の奉仕者は植える者であり、キリストを神の民の中へと植えます(Ⅰコリント3:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが命の流れとしてのキリストを享受して、種まく者、植える者、水を注ぐ者、生む者、養う者、建造する者となりますように。主よ、わたしたちがキリストを他の人の中へとまいて、植えるために、わたしたちの霊の中で命としてのキリストを真に経験することができますように。

 

 

キリストを享受して種まく者、植える者、水を注ぐ者、生む者、養う者、建造する者となります

 

 資格づけられた新しい契約の奉仕者とは、他の人たちに命を供給する人であり、それは彼らが命において成長するのを助けるためです(Ⅱコリント3:6)。…… コリント人への第一の手紙第3章6節においてパウロは「わたしは植え」と言っています。植えることも命の事柄です。というのは、それは命の容器である種をまくこと、あるいは草、植物、木を地中に植え付けることとかかわりがあり、それらはすべて生きているものであり、成長するからです。……

 

 キリストの中で再生された、神の命を持つ信者たちは、神の新創造の中で神の耕された地、神の農場です[9節]。団体的に、神の召会であるわたしたちの中にはキリストが植えられています。わたしたちはキリストを他の人の中へと植えるために、わたしたちの霊の中で命としてのキリストを真に経験する必要があります。わたしたちが内側でキリストを成長させ、生み出すなら、他の人たちの中へと植えるキリストの何かを持ちます。(リー全集、1970年、第1巻(下)、「その霊と召会」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第22日

(メモリアルデー特別集会 第5週4日)

 

沢や沼は中立の場所、中途半端な場所、妥協となまぬるさの場所なのでいやされません

 

エゼキエル47:11-12

しかし、その沢と沼はいやされない.それらは塩地のまま残る。川の両側の岸では、あらゆる種類の木が食物として生長する。その葉は枯れることがなく、実は絶えることがなく、毎月、新しい実を結ぶ.その水がそれらのために、聖なる所から流れ出るからである。……

 

「川は、乾き干からびた地を潤し、死の水をいやします。この潤すことといやすことは、命を生み出すためです(エゼキエル47:8)。しかし、川は沢と沼をいやすことはできません。沢や沼は中立の場所、中途半端な場所、妥協となまぬるさの場所です(11節.参照、啓3:15-16)。命の流れのために、また召会生活のために、主イエスは絶対的であることを願っており、また要求しています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。家から出た川の流れによっ て、死の水がいやされることを感謝します。わたしたちが沢と沼のような場所にならないようにしてください。わたしたちが命の流れのために、また召会生活のために、絶対的であることができますように。

 

 

命の流れのために、また召会生活のために、主イエスは絶対的であることを願っています

 

 家から出た川の流れによって、死海の塩水はいやされます。これは、死が命によって飲み尽くされることを意味します。地方召会の中に豊かな深い命の流れがあるとき、多くの死が命によって飲み尽くされるでしょう。しかしながら、もしある召会の中に流れがないなら、その召会は塩に満ちた「死の海」となるでしょう。

 

 死海と乾いた場所は生かされることができ、死は命によって飲み尽くされることができますが、沼はいやされることができません(エゼキエル47:11)。沼は、乾いておらず、水の流れのない所です。沼は一部は泥、一部は水から成り、潤されてもいないし乾いてもいません。沼は妥協に満ちている状態を表徴します。これは、妥協する状態がある所はどこでも、沼があることを意味します。わたしたちは決して、「沼」であるどのような状態にも巻き込まれるべきではありません。……わたしたちは流れの中にいます。その流れは細々としたものではなく、泳げる川です。こうして川が入る所はどこでも、すべてのものが生きるでしょう。(「エゼキエル書ライフスタディ」、第26編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第21日

(メモリアルデー特別集会 第5週3日)

 

川はすべてのものを生かし、川の流れは木、魚、家畜を生み出します

 

エゼキエル47:8-10

……この水は東の地域に向かって流れ出て、アラバに下り、海に行く……この川が流れて行くすべての所で群がるすべての命あるものは生き、この水が入ると、非常に多くの魚がいるようになる。……漁師たちはエン・ゲデからエン・エグライムまで、海のそばに立つ.そこは網を広げる場所となる。

 

「川はすべてのものを生かします。川の流れは木、魚、家畜を生み出しますエゼキエル47:7,9-10,12)。川は、乾き干からびた地を潤し、死の水をいやします。この潤すことといやすことは、命を生み出すためです(8節)。川は沢と沼をいやすことはできません。沢や沼は中立の場所、中途半端な場所、妥協となまぬるさの場所です(11節.参照、啓3:15-16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。川はすべてのものを生かすことを感謝します。川の流れは木、魚、家畜を生み出し、乾き干からびた地を潤し、死の水をいやし、命を生み出すことを感謝します。主よ、主の回復のために若い人たちが生み出されますように。

 

 

川は乾き干からびた地を潤し、死の水をいやします

 

 エゼキエル書第47章8節の川はアラバに下ります。「アラバ」というヘブル語は、荒野、乾いた地、何も育たない干からびた地を意味します。このゆえに、それは砂漠です。この地は潤される必要があります。川は乾いた地を潤し、死海をいやすためです。アラバは死海に近いです。……その川が海に流れ込むので、海の塩水はいやされます。その海は、今や真水となります。なぜなら、その塩は飲み尽くされてしまったからです。その川はまず来て、何も育たない乾いた地を潤し、また死の水をいやします。この潤すことといやすことは、命を生み出すためです。(リー全集、1969年、第2巻(下)、「聖書の中の命についての重要な啓示」、第6編)

 

 この流れの中で、木は生き、毎月、甘くておいしい実を結びます(12節)。さらに、水は大量の魚を生み出します(9節)。家畜は二つの町の名(「エン・ゲデ」と「エン・エグライム」)によって暗示されています(10節)。「エン・ゲデ」は「子やぎの源泉」を意味し、「エン・エグライム」は「二頭の子牛の源泉」を意味します。これらの源泉は、若い家畜である子やぎと子牛のためです。わたしたちはこのすべてから、川の流れが木、魚、家畜を生み出すことを見ます。(「エゼキエル書ライフスタディ」、第26編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第20日

(メモリアルデー特別集会 第5週2日)

 

命の流れが増し加わるために、わたしたちは青銅の人としての主によって測られます

 

エゼキエル47:5

さらに、彼が千キュビトを測ると、渡ることができない川になった.水が増して、泳げるほどの水、渡ることができない川になったからである。

 

ヨハネ7:38

わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る。

 

 命の流れの増し加わりのために、わたしたちは青銅の人としての主によって測られる必要があります(エゼキエル40:3.47:2-5.啓1:15.参照、ヨハネ7:37-39)。測ることは、試験し、テストし、裁き、所有することです。完全な単位である千キュビト(参照、詩84:10)を四回測ることが示しているのは、被造物としてのわたしたちが主によって徹底的に測られる必要があり、それは主がわたしたちの全存在を占有し、徹底的に所有するためであるということです(イザヤ6:1-8)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、命の流れは増し加わることを感謝します。わたしたちの内側の流れがさらに深くなるために、わたしたちの動機、意図、目的、目標、願いをすべて裁いて、わたしたちを占有してください。わたしたちが家からの流れを享受することができますように。

 

 

わたしたちは家からの流れを享受するために、完全に測られる必要があります

 

 その人は手に測りなわを持って来て、川の流れを測りました(エゼキエル47:3-5)。この人が最初に川を測ったとき、細々とした流れが家から出て来るにすぎませんでした。次に彼が千キュビトを測ると、その流れはさらに深くなり、くるぶしに達しました(3節)。再び彼が千キュビトを測ると、その流れはさらに深くなり、ひざに達しました(4節)。この後その人がさらに千キュビトを測ると、その流れはさらに深くなり、腰に達しました(4節)。彼が四度目に千キュビトを測ったとき、その流れは渡ることができない川となり、その川は泳げるほどの水になりました[5節]。

 

 わたしたちは家からの流れを享受したいなら、完全に測られる必要があります。わたしたちはさらに深い流れを享受したいなら、測られる、すなわち、主によってテストされ、試験され、裁かれ、所有される必要があります。わたしたちの動機、意図、目的、目標、願いはすべて裁かれなければなりません。わたしたちが所有するあらゆるもの、かかわっているあらゆるものは、裁かれなければなりません。これは、わたしたちの内側の流れをさらに深くするでしょう。(「エゼキエル書ライフスタディ」、第26編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第19日

(メモリアルデー特別集会 第5週1日)

 

わたしたちは神の家からの命の流れを享受します

 

ヨハネ7:18

自分から語る者は、自分の栄光を求める.しかし、遣わされた方の栄光を求める者は、真実であり……

 

Ⅰコリント10:31

こういうわけで、あなたがたは食べるにも飲むにも、また何をするにも、すべて神への栄光のために行ないなさい。

 

「クリスチャン生活をするために、わたしたちは神の家からの命の流れを享受する必要があります(エゼキエル47:1-12)。神の究極の行動は人の中の神の行動であり、神の命、性質、要素、本質において神であるすべてをもって人に浸透することによって、人を神化し、神の栄光を現して、神を表現することです(Ⅱコリント3:18.Ⅰヨハネ3:2)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。生ける水が召会から流れ出るために、わたしたちが神の栄光を追い求めることができますように。また、十字架の対処と完全な献身によって、命の流れを享受することができますように。

 

 

神の川は敷居の下から流れ出て、東へ流れ、神の栄光の方向に流れます

 

 川は家から出て東へ流れます(エゼキエル47:1b)。東は主の栄光の方向です(民2:3、エゼキエル43:2)。東へ流れることは、神の川が常に神の栄光の方向に流れることを示します。川は神の栄光を顧慮します。召会生活におけるすべてのものは、神の栄光のためであるべきです。例えば、わたしたちは福音を宣べ伝えるとき、神の栄光を尋ね求めるべきです。わたしたちの福音の宣べ伝えが神の栄光のためであるなら、生ける水のあふれ流れがあるでしょう。しかしながら、もしわたしたちが神の栄光を顧慮しないなら、流れは制限されるでしょう。召会の中のあらゆる人が神の栄光を追い求め、顧慮するべきです。そうすれば、生ける水は召会から流れ出るでしょう。……

 

 流れは祭壇のそばにあります(1節d)。これは、流れが常に十字架のそばにあることを示します。もしわたしたちに十字架の対処がないなら、流れは妨げられるでしょう。流れを持とうとするなら、十字架の対処を持たなければなりません。わたしたちは進んで十字架を経過して、流れが出て来るようにする必要があります。(「エゼキエル書ライフスタディ」、第26編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第17日

(メモリアルデー特別集会 第4週6日)

 

わたしたちが主の中に住み、主の言葉がわたしたちの中に住むとき、主の言葉から出てくる願いを祈ります

 

ヨハネ15:7

あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。

 

Ⅰヨハネ5:14

何事でも、わたしたちが彼のみこころにしたがって求めるなら、彼は聞いてくださいます.これこそ、わたしたちが彼に対して持っている大胆さです。

 

「わたしたちが主の中に住み、主の言葉がわたしたちの中に住むとき、わたしたちの中に、主の言葉から出てくる願いがあるようになります(ヨハネ15:7.Ⅰヨハネ5:14-15)。彼の願いはわたしたちの願いとなり、わたしたちはこの願いにしたがって祈ります。主はこのような祈りに答えます。なぜなら、このような祈りは、わたしたちが主の中に住み、主の言葉がわたしたちの中に住んだ結果であるからです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが主の中に住み、主の言葉がわたしたちの中に住んでくださいますように。そして、内住する主の言葉から出る願いにしたがって、望むものを求めさせてください。主の中に住むことから生じる祈りを学ばせてください。

 

 

内住する主の言葉から出てくる願いにしたがって祈ります

 

 ヨハネによる福音書第15章7節は、……四つの点へと分けられることができます。第一の点は、「あなたがたがわたしの中に住んでおり」です。第二の点は、「わたしの言葉があなたがたの中に住んでいる」です。4節と5節は、わたしたちが主の中に住むことと、彼がわたしたちの中に住まわれることについて語ります。しかし7節で、「わたし」は「わたしの言葉」に変わりました――「あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいる」。「わたし」が「わたしの言葉」に変えられていることが、わたしがあなたがたに説明したいことを意味します。……それが「わたしの言葉があなたがたの中に住んでいる」と言うとき、これは一歩前進です。

 

 第三に、それは、「何でも望むものを」と言います。主がわたしたちの中で語られるので、わたしたちは何かを願い始めます。この願いは、主の言葉から出て来たものです。第四に、それは「求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる」と言います。わたしたちがこのように主の中に住むとき、彼の言葉がわたしたちの中に住みます。最後に、「望むもの」が「求めなさい」になります。この求めることは、神によって答えられます。(「祈りの学課(後編)」、第11章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第16日

(メモリアルデー特別集会 第4週5日)

 

その霊自ら、わたしたちのためにとりなしてくださいます

 

ローマ8:26-27

……同じように、その霊もわたしたちの弱さを担って助けてくださいます.なぜなら、わたしたちはどのように祈ったらよいのかわからないのですが、その霊自ら言い難いうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからです。心を探る方は、その霊の思いが何であるかを知っておられます.なぜなら、彼は神にしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

 

「祈りとは、人が神と協力し、神と同労し、神に人を通してご自身を表現していただき、こうして神の定められた御旨を完成していただくことです。祈る人は、神と協力し、神と同労して、自分の内側から、また自分を通して神にご自身とご自身の願いを表現していただきます(ローマ8:26-27.ヤコブ5:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはどのように祈ったらよいのかわからないのですが、その霊がわたしたちのためにとりなしてくださることを感謝します。主よ、わたしたちが祈りにおいて、神と同労することを学ぶことができますように。

 

 

神は彼の霊を通して、わたしたちの中で祈られます

 

 真の祈りとは、人を通して神の願いを表現する人の内側の聖霊です。言い換えれば、真の祈りは両当事者を含んでいる祈りです。それは単に人だけが神に祈るのではなく、その霊が人とミングリングし、人を着て、祈りの中で人と結合することです。外面的に、それは人が祈っているのです。しかし内面的にはそれはその霊が祈っているのです。これは両当事者が同時に同じ祈りを言い表すことを意味します。……

 

 ローマ人への手紙第8章27節[は言います]、「その霊……は神にしたがって……とりなしてくださる」。これは、聖霊が神にしたがってわたしたちの中で祈られることを意味します。すなわち、神は彼の霊を通してわたしたちの中で祈られるのです。こうして、そのような祈りは確かに、神の意図と神ご自身を表現します。(「祈りの学課(前編)」、第1章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第15日

(メモリアルデー特別集会 第4週4日) 

 

神聖な霊と人の霊がミングリングされて一となっているのは、神・人の生活のためです

 

Ⅰヨハネ3:24

そして、彼の戒めを守る者は彼の中に住み、また彼はその人の中に住まわれます。そしてこのことにおいて、わたしたちは、彼がわたしたちの中に住んでおられることを、彼がわたしたちに与えられたその霊によって知るのです。

 

「神聖な霊と人の霊は、わたしたちの内側でミングリングされて一となっています。それは、わたしたちが、神・人の生活、すなわち、神であるが人であり人であるが神である生活をすることができるためです(ガラテヤ2:20.ピリピ1:19-21前半)。神・人の生活とは、二つ霊が共に結合されミングリングされて一となった生活です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 神聖な霊と人の霊はわたしたちの内側でミングリングされて一となっていることを感謝します。主よ、わたしたちがミングリングされた霊の中に住み、主と一であることによって召会が引き上げられ、豊かになりますように。

 

 

神・人の生活は、神の霊と人の霊が共に結合されミングリングされて一となった生活です

 

 信者たちの再生された霊と神の究極的に完成された霊は、ミングリングされて一つ霊となります(Ⅰコリント6:17)。……今日、神の霊と人の霊は、わたしたちの内側でミングリングされて一となっています。それは、わたしたちが、神・人の生活、すなわち、神であるが人であり人であるが神である生活をすることができるためです。ですから、神・人の生活は、二つの霊、すなわち神の霊と人の霊が共に結合されミングリングされて一となった生活です。(リー全集、1994年―1997年、第2巻(上)、「三一の神の究極的に完成された霊と信者たちの再生された霊との結合の結果」、第2編)

 

 わたしたちがミングリングされた霊の中で主と一であることによって、ぶどうの木であるキリストの中に住むことは、神聖な事実であるだけでなく、わたしたちの霊的な生活全体に影響を与える霊的な要因でもあります。わたしたちが真の聖、霊性、また罪、この世、サタン、わたしたちの肉、自己に対する勝利を持つのは、住むことの中であり、住むことによります。わたしたちがキリストのからだの実際的な肢体となるのは、住むことの中であり、住むことによります。わたしたちが正常なクリスチャン生活をし、召会生活をするのは、住むことの中であり、住むことによります。わたしたちがぶどうの木の中に住んでいるとき、わたしたちには何の問題もありません。なぜなら、わたしたちは神の御子と一であるからです。(リー全集、1979年、第2巻(上)、「聖書の心臓部と聖書の中心的な啓示」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第14日

(メモリアルデー特別集会 第4週3日) 

 

新約の本質は、神の霊と人の霊が、共にミングリングされて一になることです

 

Ⅱコリント3:17

そして主はその霊です.そして主の霊のあるところには、自由があります。

 

Ⅰコリント6:17

しかし、主に結合される者は、主と一つ霊になります。

 

「主の中に住むことは、彼と一つ霊になること、すなわちミングリングされた霊の中で生きることです(Ⅰコリント6:17)。神のエコノミーの焦点は、ミングリングされた霊、すなわち、神の霊と人の霊とのミングリングです。神が行なおうとすること、達成しようとすることは何であれ、この焦点と関係があります(エペソ3:5, 9.1:17.2:22.5:18.6:18)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたがわたしたちの中に住んでくださることに対して、敏感になることができますように。いつもぶどうの木の中にとどまることができるように、絶えず祈ることによって、主の中に住むことを実行させてください。

 

 

天におられる主は、わたしたちの中に内住して、命を与える霊、聖なる息です

   

 彼の昇天と高く上げられることに関して、彼は天におられる主ですが、彼の内住に関して、彼は命を与える霊、聖なる息です。彼がわたしたちの霊の中におられるので、わたしたちは彼と一つ霊であり、このミングリングされた霊、すなわち、神聖な霊と人の霊とのミングリングは、ぶどうの木としての神聖な霊と、枝としての再生された人の霊のあるぶどうの木です。これら二つの霊は神聖な命の中で、また神聖な性質の中で一です。今やわたしたちは主を受け入れたので、行なう必要があるのはただ彼の中に住むことです。……わたしたちの経験によれば、いつわたしたちがキリストの中に住んでいるかを知ることは難しいのですが、わたしたちがいつ彼の中に住んでいないかを知ることは容易です。……

  

 例えば、わたしたちが胃に感覚を持つとき、それはわたしたちが空腹であるか、あるいはわたしたちが間違って食べたことを意味します。わたしたちは何も感じないとき、わたしたちの胃の調子が良いことがわかります。同様に、わたしたちは主の中に住むとき、何の感覚も持たないかもしれません。しかし、わたしたちが彼の外にいるなら、直ちに何かが間違っていることがわかります。わたしたちは何かが間違っていることを感じるときはいつでも、わたしたちが行なっていることを何であれやめる必要があります。これがキリストの中に住むことに対する消極的な面の秘訣です。(リー全集、1979年、第2巻(上)、「聖書の心臓部と聖書の中心的な啓示」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第13日

(メモリアルデー特別集会 第4週2日)

 

わたしたちの中には彼から受けた油塗りが住んでいます

 

Ⅰヨハネ2:27

あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あなたがたは、だれにも教えてもらう必要はありません.彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます.この油塗りは真実であって、偽りではないのですから、油塗りがあなたがたに教えたように、彼の中に住んでいなさい。

 

「わたしたちがキリストの中に住み、彼にわたしたちの中に住んでいただくことは、すべてを含む油塗りの内側の教えを顧慮することによります(Ⅰヨハネ2:27)。わたしたちがキリストとの神聖な交わりの中に住むのは、主の血の清めを経験することによって、また油塗る霊をわたしたちの内なる存在に適用することによってです(ヨハネ15:4-5.Ⅰヨハネ1:5, 7.2:20, 27)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの血の清めを感謝します。また、神聖な油塗りがわたしたちの中に住んでいることを感謝します。この油塗りによって、わたしたちが神で浸透され、神を所有し、神の思いを理解することができますように。

 

 

油塗りは内住する複合の霊の動きと働きであり、神をわたしたちの中へと油塗ります

 

 わたしたちが再生された時、聖なる方からのこのすべてを含む、命を与える霊は、わたしたちの中へと入って来ました。そして、永遠にわたしたちの中に住まわれます(Ⅰヨハネ2:27)。彼によって、幼い子供たちは御父を知り(13節)、真理を知ります(21節)。わたしたちはキリストの中に住むとき、神聖な油塗りを享受します。神聖な油塗りはすばらしいパースン、その霊であり、わたしたちの中で動き働いています。この油塗りがわたしたちの中に住み、わたしたちに教えるように、わたしたちは彼の中に住みます。

 

 油塗りは内住する複合の霊の動きと働きであり、手順を経た三一の神と彼の活動の構成要素すべてをわたしたちの内なる存在の中へと適用します。それによってわたしたちは、彼と完全にミングリングされて、彼の団体の表現となります(Ⅰヨハネ2:20、27節.参照、エペソ4:4-6)。さらに、油塗りはわたしたちの内側の複合の霊の動きと働きとして、神をわたしたちの中へと油塗ります。それによって、わたしたちは神で浸透され、神を所有し、神の思いを理解します。(「新約の結論(23)」、メッセージ394)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第12日

(メモリアルデー特別集会 第4週1日) 

 

わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたはその枝である

 

ヨハネ15:4-5

わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。……

 

「主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木であ[る]」と言いました(ヨハネ15:1前半.参照、啓14:18)。このまことのぶどうの木(御子)とその枝(御子にある信者たち)は、神のエコノミーにおける三一の神の有機体です。ぶどうの木の枝として、わたしたちはぶどうの木の中に住む必要があります(ヨハネ15:4-5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたはぶどうの木であり、わたしたちはその枝であることを感謝します。主よ、わたしたちとぶどうの木との間の交わりを維持することができますように。主よ、あなたとわたしたちとの間に、あなたの豊かな供給から切り離すものが何もないように、あなたのあわれみと恵みを求めます。

 

 

わたしたちがぶどうの木の枝であるという事実を見て、交わりを維持する必要があります

 

 わたしたちはぶどうの木の中に住もうとするなら、自分がぶどうの木の枝であるという事実を見なければなりません(ヨハネ15:5)。わたしたちがキリストの中に住むことは、わたしたちがぶどうの木の枝であるという明確なビジョンにかかっています。わたしたちがすでに彼の中にいることを見るなら、彼の中に住むことができます。わたしたちは彼から離れ去りたくないでしょう。

 

 わたしたちはひとたび、自分がぶどうの木の枝であるという事実を見るなら、わたしたちとぶどうの木との間の交わりを維持する必要があります。いかなる絶縁体も、わたしたちをぶどうの木の豊かな供給から引き離すでしょう。少しの不従順、罪、あるいは罪深い考えでさえ、わたしたちをぶどうの木の豊富から引き離す絶縁となり得ます。もしそのようなものを罪定めしないで、しがみついているなら、それらはわたしたちを、ぶどうの木の豊かな供給から切り離すでしょう。まず、わたしたちは枝であることを見なければなりません。次に、わたしたちと主との間の交わりを維持する必要があります。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(2)」、第34編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第10日

(メモリアルデー特別集会 第3週6日) 

 

ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るようだ

 

詩133:1-3

見よ、何とすばらしく、何と喜ばしいことであろう.兄弟たちが和合して住んでいる! それは、頭に注がれた尊い油が髭に、アロンの髭に流れ下り、彼の衣のすそに流れ下るようだ.また、ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るようだ。まことに、エホバはそこに祝福を命じられた.すなわち命を永遠まで。

 

「わたしたちは信者として、複合の膏油で、すなわちすべてを含む霊で油塗られています。詩篇第133篇2節は、塗り油がどのようにアロンの頭から彼の髭に流れ下り、それから彼の衣のすそに流れ下ったかを描写しています。これは、からだ全体がその霊で油塗られていることを表徴します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るように、その霊としての塗り油が一の立場にある召会、からだ全体に流れることを感謝します。主よ、わたしたちすべてが召会、からだと一になって、この塗り油の流れの中で祝福にあずかることができますように。

 

 

兄弟たちが和合して住んでいるのは、何とすばらしく喜ばしいことであろう

 

 膏油は個人のためではありません。それはからだのためです。……詩篇第133篇の絵によれば、膏油は頭の上にあります。それからそれは髭に広がり、衣のすそに流れ下ります。これは、もしわたしたちが個人主義的であるなら、膏油を経験することができないことを示します。ある人たちは、家で一人で主に触れることができると議論するかもしれません。疑いもなく彼らはできます。しかしながら、極めて重要な事柄は、わたしたちが召会と一であるかどうかということです。わたしたちは召会と一であるなら、家で一人で正常に主に触れることができます。……

 

 その理由は、塗り油が個々の肢体のためではなく、かしらとからだのためであり、からだを伴うかしらのためでさえあるからです。このゆえに、膏油によってペンキを塗られるために、わたしたちは召会の中にいなければなりません。このようにすれば、わたしたちは自然に、塗り油とそのすべての要素の適用を享受します。この膏油が適用されることによって生み出される一は、何とすばらしいことでしょう! (リー全集、1979年、第2巻(下)、「一の真の立場」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第9日

(メモリアルデー特別集会 第3週5日)

 

すべてを含む複合の霊は、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給であり、キリストのからだの供給です

 

ピリピ1:19-20

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。

 

「聖なる塗り油が予表するこのすべてを含む複合の霊は、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給であり、キリストのからだの供給です。この供給によって、わたしたちはからだの中で、からだを通して、からだのためにキリストを生きて、キリストを大きく表現することができます(ピリピ1:19-21前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神聖な要素しか持たなかった神の霊がキリストの肉体と成ること、十字架、復活を通して、イエス・キリストの霊と成ったことを感謝します。からだの上にある聖なる塗り油、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、わたしたちがキリストを大きく表現することができますように。

 

 

わたしたちはからだと正しい関係を持って奉仕するときに、からだの上にある塗り油を受けます

 

 わたしたちは経験から、もし召会に問題を持ったり、召会の奉仕にあずかることを拒否したりするなら、すべてを含む霊を享受しないことを知っています。… 出エジプト記第30章によれば、複合の膏油は、幕屋と祭司の油塗りのためでした。複合の霊、イエス・キリストの霊は、からだ、神の幕屋のためであり、神の奉仕、祭司職のためであることを認識するのはとても重要です。多くのクリスチャンが今日からだから、また祭司の奉仕から切り離されているので、その霊の満ちあふれる供給にあずかることは極めて困難です。

 

 パウロはからだの中に生きていました。彼はすばらしい使徒でしたが、なおも聖徒たちの祈りや祈り求めることを必要としました。これは、パウロがからだと正しい関係を持っていたことをはっきりと示しています。さらに、パウロはまた祭司職にあずかりました。彼はからだ、すなわち幕屋の中にいたので、また祭司職、すなわち神の奉仕の一部であったので、正しい位置にいて、からだの上にある塗り油の流れを受けました。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(2)」、第33編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第8日

(メモリアルデー特別集会 第3週4日)

 

聖なる塗り油は、幕屋とそのすべての調度品と祭司たちを油塗るためです

 

出30:26,30

それをもって、あなたは次のものに油塗らなければならない.すなわち、集会の天幕と証しの箱。…… あなたはアロンとその子たちに油を塗り、彼らを聖別して、わたしに祭司として仕えさせなければならない。

 

「複合の膏油、聖なる塗り油は、幕屋とそのすべての調度品、祭壇とそのすべての器具、洗盤とその台、祭司たちを油塗るのに用いられ、神の神聖な定められた御旨のためにこれらすべてのものを神に対して聖とし、分離し、聖別しました(出30:26-30.Ⅰペテロ1:2.Ⅰコリント6:11.ローマ15:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。聖なる塗り油を感謝します。わたしたちが油塗りによって聖別されて、祭司として神に仕えることができますように。わたしたちがこの油塗りにしたがって歩き、行動し、働き、存在することができますように。

 

 

わたしたちはこの油塗りにしたがって歩き、行動し、働き、存在します

 

 出エジプト記第30章の複合の膏油は、幕屋とそのすべての調度品、奉仕する祭司たちに油塗るのに用いられ、神の神聖な定められた御旨のためにこれらすべてのものを神に対して聖とし、分離し、聖別しました(26-30節)。……複合の塗り油によって予表された複合の霊は、神の礼拝と奉仕に関する事柄と神の奉仕者を油塗るためです(Ⅰヨハネ2:20、27)。わたしたちはその霊の油塗りの下にいるとき、主の権益のために、義務を果たし、責任を担うことができます。

 

 わたしたちはこの油塗りにしたがって歩き、行動し、働き、存在しなければなりません。この油塗りは、その霊の働きであり、動きです。こういうわけで、ローマ人への手紙第8章4節は、わたしたちはその霊にしたがって歩くべきであると言っているのです。続いて、ガラテヤ人への手紙第5章では、わたしたちはその霊によって生き、歩くように命じています(16、25節)。(「クリスチャン生活」、第8章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第7日

(メモリアルデー特別集会 第3週3日) 

 

彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます

 

Ⅰヨハネ2:27

あなたがたの中には彼から受けた油塗りが住んでいるので、あなたがたは、だれにも教えてもらう必要はありません.彼の油塗りが、すべての事をあなたがたに教えます.この油塗りは真実であって、偽りではないのですから、油塗りがあなたがたに教えたように、彼の中に住んでいなさい。

 

「さらに、四つの香料の分量が、それぞれ五百シケルから成る三つの単位であり、中間の五百シケルが二つの部分に分けられていたことは、復活における三一の神、第二者(御子)が十字架上の死によって「分けられた」ことを表徴します。聖書で五は責任の数ですから(マタイ25:2とフットノート1)、複合の膏油の五つの要素と、四つの香料の三つの五百シケルの単位は、三一の神が復活において責任を担うための力、能力であることを表徴します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの中には、主から受けた油塗りが住んでいることを感謝します。わたしたちが内側の油塗りに教えられて、主の中に住んでいることができますように。

 

 

今やキリストの霊、一つの霊の中に、キリストの誕生、生活、死、復活、昇天の効力があります

 

 神の油塗られた方として、キリストは誕生、人の生活、十字架、復活、昇天を経過されました。……わたしたちはすでに見てきたように、物質の霊はその物質のエキスです。わたしたちはこの原則をキリストの霊に適用して、キリストの誕生、生活、死、復活、昇天のエキスが、今やキリストの霊のすべての要素であると言ってよいでしょう。ですから、この一つの霊の中に、キリストの誕生、生活、死、復活、昇天の効力があるのです。

 

 わたしたちは霊にしたがって歩くとき、キリストの肉体と成ることと彼の人の生活を持ちます。わたしたちは単に、キリストが生きられた方法の模倣を持つのではありません。さらに、わたしたちはまた彼の死、復活、昇天を持ちます。(「出エジプト記ライフスタディ(8)」、第159編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第6日

(メモリアルデー特別集会 第3週2日) 

 

オリブ油と四つの香料すべては、圧搾あるいは切られる過程を経過しました

 

ヨハネ7:39

イエスはこれを、彼の中へと信じる者たちが受けようとしているその霊について言われたのである.まだイエスの栄光が現されていなかったので、その霊はまだなかったからである。

 

「聖なる塗り油、すなわちオリブ油と四つの香料の複合の膏油は、イエス・キリストの霊の満ち満ちた予表です。オリブ油と四つの香料がすべて、圧搾あるいは切られることの過程を通して用意されたことは、神の霊がキリストの苦難を通して(マタイ26:36)キリストの霊となったことを表徴します(ローマ8:9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。すべての香料は、キリストの苦難を通して用意されたことを感謝します。香料は油とブレンディングされて複合の霊が形成されました。主よ、日ごとの生活の中で、わたしたちが複合の霊を経験し、享受することができますように。

 

 

キリストの苦難を通して、香料は油とブレンディングされて複合の霊を形成しました

 

 塗り油の五つの要素、すなわち四つの香料とオリブ油は、すべて圧搾や切られることと関係がある過程を経過しなければなりませんでした。例えば、もしオリブが圧搾されないなら、オリブ油を出すことはできません。同じように、没薬や肉桂を得るために、ある種の切り込みが樹皮になされなければなりません。……没薬の木がその樹脂を流し出すとき、それは涙を流していると言ってよいでしょう。……  すべての香料は、苦難を通して用意されます。これは、神の霊が、キリストの苦難を通してはじめて複合の膏油としてのキリストの霊となることができたということです。……

 

 キリストの苦難を通して、香料は油とブレンディングされて複合の霊を形成しました。主イエスは彼の生涯を通して死を被りました。それは、彼が十字架上にいた六時間だけではありませんでした。彼は生まれるとすぐ、苦難を受け始めました。この苦難は没薬によって表徴されます。……十字架につけられた生活とは苦難の生活です。……日ごとに彼は十字架の生活をされました。これは、木になされた切り口から涙として落ちる没薬の経験です。(「出エジプト記ライフスタディ(8)」、第159編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第5日

(メモリアルデー特別集会 第3週1日)

 

聖なる塗り油はイエス・キリストの霊の満ち満ちた予表です

 

出30:23-25

あなたはまた、最も良い香料を取りなさい.すなわち、流れる没薬五百シケル、かおり高い肉桂をその半分、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケルを……取り、またオリブ油一ヒンを取りなさい。あなたはそれを聖なる塗り油に、……かおり高い膏油に作らなければならない。

 

「聖なる塗り油、すなわち「調合する者のわざにしたがって複合された」オリブ油と四つの香料の複合の膏油は、イエス・キリストの霊の満ち満ちた予表です。この霊は、キリストが死と復活を通して成った、手順を経た三一の神の複合の、すべてを含む、命を与える霊です(出30:22-25.Ⅰコリント15:45後半.ヨハネ7:37-39.ピリピ1:1)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが死と復活を経過して、すべてを含む、命を与える霊と成られたことを感謝します。主よ、わたしたちが聖なる塗り油としての複合の膏油の実際を経験し、享受することができますように。

 

 

聖なる塗り油は、四つの香料、没薬、肉桂、菖蒲、桂枝とオリブ油から成っています

 

 聖なる塗り油の材料は二つの部類から成り、五の数です。第一の部類は四つの香料、すなわち、没薬、肉桂、菖蒲、桂枝を含みます。第二の部類は一つの項目、すなわち、オリブ油から成っています。流れる没薬は、香りは甘いのですが、味は苦く、キリストの尊い死を表徴します。聖書で、没薬はほとんど葬りのために用いられます。ですから、没薬は死と関係があります。ヨハネによる福音書第19章によれば、ニコデモと他の人たちは主イエスの体を葬る準備をしていたとき、没薬を用いました。

 

 没薬は香りの良い木から来ます。この木は切開した結果、あるいはある種の自然な裂け目や傷口を通して樹液をしたたらせます。古代、この樹液は死の苦しみを軽減するのに用いられました。主イエスが十字架につけられていた時に、没薬を混ぜたぶどう酒が与えられたのは、彼の苦痛を軽減させるためでした。しかしながら、彼はそれを飲むことを拒絶しました。疑いもなく、出エジプト記第30章の没薬は主の死の象徴です。没薬の芳香液は痛みを軽減するだけでなく、体が不適切な分泌物を出すのをいやすのに用いることができます。…… 主の十字架上の死はこの問題を正します。(「出エジプト記ライフスタディ(8)」、第158編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第3日

(メモリアルデー特別集会 第2週6日)

 

接ぎ木された命の中で、神聖な命は神の当初の創造を復活させます

 

ローマ11:17、24

……野生のオリブの木であるあなたが、[枝々]の間に接がれ、オリブの木の根の豊かな養分に共にあずかる者となったとしても。…… もしあなたが……栽培されたオリブの木へと、自然の性質に反して接がれたとしたら、まして本来の枝である者たちは、彼ら自身のオリブの木へとどれほどよく接がれることでしょう!

 

「接ぎ木された命の中で、神聖な命は神の当初の創造を復活させます(ヨハネ11:25)。神は、彼の創造を放棄する代わりに、それを取り戻されます。神は、わたしたちの存在のすべての面を復活の中へともたらすことを意図しています(ピリピ3:11)。神聖な命は、消極的なものを排除するとき、働いて神の当初の創造を復活させます。このようにして、わたしたちの本来の機能(創造のときにわたしたちに与えられた機能)は、回復され、強められ、豊かにされます(ガラテヤ2:20)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。接ぎ木された命の中で、神聖な命が神の当初の創造を復活させてくださることを感謝します。主よ、あなたとさらに一になりたいです。神聖な命が働いて、霊的な抗生物質の殺す力でわたしたちの消極的なものが排除されますように。

 

 

接ぎ木によって人の命は神聖な命によって強められ、引き上げられ、豊かにされます

 

 神によって定められた天然の法則によれば、貧しい命がより豊かな命に影響を与えるのではなく、より豊かな命が貧しい命に影響を与えるのです。事実、豊かな命は貧しい命のすべての欠点を飲み尽くし、貧しい命を造り変えます。同じ原則で、わたしたちがキリストの中へと接ぎ木される時、キリストはわたしたちの欠点を飲み尽くしますが、わたしたち自身の命を除き去るのではありません。その反対に、彼はわたしたちの欠点を飲み尽くす時、わたしたちの人性を引き上げられます。彼はわたしたちの思い、意志、感情、すべての美徳を引き上げられます。……

 

 キリストの命の中に、わたしたちが必要とするすべての要素があります。彼の命の中には養う要素があると同時に、殺す要素もあります。あなたは自分の性情に失望しているかもしれません。しかし、キリストの命はあなたの性情の消極的な要素を殺し、彼はあなたの性情を投げ捨てるのではなく、それを引き上げ、用いられるでしょう。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(2)」、第63編) 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第2日

(メモリアルデー特別集会 第2週5日)

 

接ぎ木された命は、人の命と神聖な命とのミングリングです

 

ローマ6:3-5

……キリスト・イエスの中へとバプテスマされたわたしたちはみな、彼の死の中へとバプテスマされた……こういうわけで、わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られたのです.それは、……わたしたちも命の新しさの中を歩くためです。もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結合して生長したなら、彼の復活の様の中でも彼と結合して生長するのです。

 

「接ぎ木された命は、交換された命ではなく、人の命と神聖な命とのミングリングです(ガラテヤ2:20)。そこには、命の交換や取り換えはありません。交換するのではなく、神聖な命を人の命の中へと分与し注入して、神聖な命を人の命とミングリングします」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはキリスト・イエスの中へとバプテスマされたことを感謝します。主よ、わたしたちが命の新しさの中を歩き、人の命と神聖な命とのミングリングを享受することができますように。

 

 

接ぎ木は、キリストの死と復活における主との有機的な結合を見せています

 

 わたしたちの天然の命は、わたしたちがキリストと共に死ぬことにおいて、アダムと共に滅ぼし尽くされ、完全に破壊され、絶滅する必要があります。わたしたちはバプテスマにおいて、キリストと共に彼の死の中へと葬られ、こうしてアダムにあるわたしたちの古い人の天然の命は滅ぼし尽くされました(ローマ6:3-4前半)。

 

 わたしたちが命の中で王として支配するのは、アダムと共に死ぬことにおいてだけでなく、キリストと共に生きることにおいてでもあります(4節後半、5節後半、8節後半.ガラテヤ2:20後半)。ローマ人への手紙第6章8節は……キリストの死と復活における彼との有機的な結合を見せています。そのような有機的な結合は、接ぎ木において最高に例証されます。……わたしたちはキリストに接ぎ木されて、彼の死と復活の中で彼と結合して生長しています。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(下)、「神の有機的な救いを経験することは、キリストの命の中で王として支配することと等しい」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り第1日

(メモリアルデー特別集会 第2週4日)

 

わたしたちは再生されて、接ぎ木された命を生きます

 

ガラテヤ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。

 

「わたしたちは再生された者として、接ぎ木された命を生きるべきです。その命の中で、双方は結合されて有機的に成長します(ヨハネ15:1,4-5)。わたしたちは、キリストの中へと接ぎ木された後、もはや自分自身によって生きるべきではありません。むしろ、わたしたちは霊なるキリストにわたしたちの中で生きていただくべきです(ガラテヤ2:20)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが命としての神で再生されたことを感謝します。キリストがわたしの中に生きておられることを感謝します。主よ、わたしたちが自分の肉や天然の存在によって生きるのではなく、キリストに接ぎ木された霊によって生きることができますように。

 

 

キリストとわたしたちは、一つの命、一つの生活を持っています

 

「もはやわたしではありません」とは、キリストが入ってきてわたしたちが出ていくという、交換された命を示すのではありません。ガラテヤ人への手紙第2章20節の後半でパウロは、「わたしは……生きている」と言いました。わたしたち再生された人には、古い「わたし」と新しい「わたし」があります。古い「わたし」は、すでに十字架につけられ(ローマ6:6)、「もはやわたしではありません」とパウロが言うものです。新しい「わたし」は、「わたしは……生きている」とパウロが言うものです。

 

 古い、終わらせられた「わたし」には、神性はありません。新しい「わたし」には、神が命として加えられています。古い「わたし」が復活し、神がそれに加えられて、新しい「わたし」となりました。一方で、パウロは終わらせられました。もう一方で、復活したパウロ、命としての神で再生されたパウロは、なおも生きていました。さらにパウロは、「もはやわたしではありません」と言いましたが、「キリストがわたしの中に生きておられるのです」とも言いました。生きているのはキリストでしたが、しかも彼は、パウロの中に生きておられました。この両者、キリストとパウロは、一つの命、一つの生活を持っていました。(ガラテヤ2:20、フットノート2)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)