9月 全国特別集会

9月の祈り第16日

(9月全国特別集会 第1日)

 

新約の務め

 

標語:

和解の務めは、わたしたちを外庭から至聖所の中へともたらします。この至聖所へと、キリストは大牧者として、ご自身の御名のために、わたしたちを義の途の上で導きます。それによって、わたしたちが日々いつまでも主の家、神の聖なる所(キリスト、召会、わたしたちの霊、新エルサレム)に住みます。

 

メッセージ 1

新約の務め――その霊の務め、義の務め、和解の務めは、わたしたちを新しい復興の中へともたらす(Ⅱコリント3:6-9.5:18-20)

 

Ⅱコリント3:6、8-9 神はまたわたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました.それは、文字ではなく、霊の奉仕者です.…… ましてその霊の務めは、栄光の中にないわけがありましょうか? 罪定めする務めに栄光があるなら、まして義とする務めは、なおさら栄光にあふれるのです。

 

Ⅱコリント5:18 これらすべてのものは、神から出ています.彼はキリストを通して、わたしたちをご自身に和解させ、その和解の務めを、わたしたちに与えてくださいました.

 

Ⅰ.新約の務めは、神聖な啓示の高嶺としてのその霊の務めであって、わたしたちを新しい復興の中へともたらします(Ⅱコリント3:6-8.啓22:17前半.ハバクク3:2)。 

 

Ⅱ.新約の務めは義の務めであり、それはキリストを生かし出し、キリストを真に表現すること、すなわち神・人の生活であって、わたしたちを新しい復興の中へともたらします(Ⅱコリント3:9.ローマ5:18,21)。

 

Ⅲ.新約の務めは和解の務めであり、その内在的な意義は、神にしたがって牧養することであって、わたしたちを新しい復興の中へともたらします(Ⅱコリント5:18-20)。 

 

 和解の務めは、わたしたちを外庭から至聖所の中へともたらします。この至聖所へと、キリストは大牧者として、ご自身の御名のために、わたしたちを義の途の上で導きます。それによって、わたしたちは日々いつまでも主の家、神の聖なる所(キリスト、召会、わたしたちの霊、新エルサレム)に住みます(詩23:3,6.73:17.77:13.ヨハネ1:14.2:21.Ⅰテモテ3:15-16.エペソ2:22.啓21:2-3,22)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

朝ごとの食物

キリストを経験し、享受し、表現する

9月の祈り第14日

(年二回の訓練(7月) 第2週6日)

 

キリストはわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ります

 

エペソ3:16-17

どうか御父が、彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ。

 

「エペソ第3章17節が啓示しているのは、三一の神がわたしたちの中へと入って来ており、要素としてのご自身をもって、また材料としてのわたしたちからのものをもって建造の働きを行なうということです。これはマタイ第13章の種まく者のたとえによって例証されています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの心の中にご自身のホームを造ってくださることを感謝します。このために、わたしたちを内なる人の中へと増強してくださいますように。また、キリストがわたしたち心の中に、ご自身のホームを造ることができますように。

 

 

キリストはわたしたちの内なる存在の中に、ホームを建造しつつあります

 

 キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることは、建造と関係があります。わたしたちはホームを造ろうとするなら、まず家を建てなければなりません。ホームを造ることは、ある特定の場所に定住することを暗示します。しかしながら、わたしたちは定住しようとするなら、家を持たなければなりません。「キリストが、……ご自身のホームを造る」という言葉は[エペソ3:17]、彼がわたしたちの中で建造の働きを行なっておられることを強く示しています。キリストはわたしたちの内なる存在の中にホームを建造しつつあります。

 

 ヨハネによる福音書第14章23節で、主イエスは言いました、「だれでもわたしを愛する者は、……わたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。この節の「住まいを造る」は、エペソ人への手紙第3章17節の「ご自身のホームを造る」と等しいのです。(「サムエル記上・下ライフスタディ」、第30編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第13日

(年二回の訓練(7月) 第2週5日)

 

種まく者は主イエスであり、ご自身を命の種として、わたしたちの中へとまかれます

 

マタイ13:3

彼は多くの事を、彼らにたとえで語って言われた、「見よ、あの種まく者が、種をまきに出かけた。

 

コロサイ2:19

かしらに結び付いて……この方から、からだ全体は、節と筋によって豊かに供給され、結合され、神の増し加わりによって成長するのです。

 

「種まく者は主イエスのすばらしいパースンであり、まかれた種も三一の神の具体化としての主ご自身です(マタイ13:3,18-23)。わたしたちは種まく者であるキリストが、ご自身を命の種として人の中へとまくというビジョンを見る必要があります。それはキリストを成長させて、神の建造のための尊い材料が生み出されるためです(Ⅰコリント3:9,12前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主がご自身を命の種として、わたしたちの中へとまいてくださったことを感謝します。言葉としてのキリストが、土壌としてのわたしたちの中にまかれて成長し、神の建造のための尊い材料が生み出されますように。

 

 

キリストはご自身を命の種として人の中へとまきます

 

 種まく者は主イエスのすばらしいパースンであり、まかれる種も三一の神の具体化としての主ご自身です。キリストはご自身を命の種として、わたしたちの中へとまかれました(マタイ13:4前半、8節)。キリストは言葉で表徴される種であり(19節)、わたしたち、神の選ばれた者は土壌です。……ですから、言葉としてのキリストは、土壌としてのわたしたちの中にまかれた命の種なのです。……

 

 わたしたちは種まく者であるキリストが、ご自身を命の種として人の中へとまくというビジョンを見る必要があります。このビジョンは主の回復の心臓部です。なぜなら、それは主の心の願いと関係があるからです。……彼が願っているのは、彼が彼の選ばれた民であるわたしたちの中へと入って来て、ミングリングの方法でわたしたちの命となって、ご自身をわたしたちの要素とならせ、わたしたちを彼の表現とならせるということです。三一の神の具体化また表現であるキリストは、ご自身をわたしたちの存在の中へとまかれました。(「新約の結論(16)」、メッセージ270)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第12日

(年二回の訓練(7月) 第2週4日)

 

主イエスはわたしたちの安息です

 

マタイ11:28-30

すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。わたしは心の柔和なへりくだった者であるから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい.そうすれば、あなたがたは魂に安息を見いだす。なぜなら、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

「[マタイ11:28で] 述べられている労苦は、律法の戒めや宗教的規定を守ろうと努力する労苦を指しているだけでなく、何かの働きに成功しようとして奮闘する労苦のことも指しています。このように労苦する人はだれでも、常に重荷を負っています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主イエスにある安息を感謝します。わたしたちはすべて労苦し重荷を負っている者たちです。主イエスよ、あなたが御父のみこころに服従したように、わたしたちも主のくびきを負い、主から学ぶことができますように。

 

 

主のくびきを負うことは御父のみこころを取ることであり、わたしたちの安息です

 

 マタイによる福音書第11章29節で、主イエスは安息する方法を与えておられます。……主のくびき、彼の生活の方法は安息ですが、わたしたちのくびきは重荷です。ですから、わたしたちは、自分のくびきを負うべきではありません。むしろ、主のくびきを負い、彼の生活の方法を取るべきです。主のくびきとは、御父のみこころを取ることです。……主イエスはそのような生活をし、御父のみこころ以外の何も顧慮しませんでした(ヨハネ4:34.5:30.6:38)。彼はご自身を、完全に御父のみこころに服従させました(マタイ26:39、42)。ですから、主はご自身から学ぶようにとわたしたちに求めているのです。彼から学ぶとは、外側で彼を模倣することではなく、主のくびき(神のみこころ)を負うことによって、わたしたちの霊の中で主を複写することです(11:29前半、Ⅰペテロ2:21)。

 

 主のくびきを負い、彼から学ぶことによってわたしたちが見いだす安息は、わたしたちの魂のためです。それは性質において内側の安息であり、何か外側のものだけではありません。最も困難な事は、魂の中で安息することです。人々が眠れないのは、魂が悩まされるからです。しかし主のくびきを負い、彼から学ぶことによって、わたしたちは満足のうちに、魂の中で彼の安息にあずかります(マタイ11:28後半、29後半、30)。(「新約の結論(16)」、メッセージ269)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第11日

(年二回の訓練(7月) 第2週3日)

 

死の影の谷を歩いても、災いを恐れません.あなたがわたしと共におられるからです

 

詩23:4-6

たとえ、死の影の谷を歩いても、わたしは災いを恐れません.あなたがわたしと共におられるからです.あなたの棒とあなたの竿、それらがわたしを慰めます。あなたはわたしの前にわたしの敵の前で、宴席を設け、わたしの頭に油を塗ってくださいます.わたしの杯は満ちあふれています。わたしの命の日の限り、必ず良きものと慈愛がわたしを追いかけて来ます.わたしは日々いつまでもエホバの家に住みます。

 

「主はわたしたちの前にわたしたちの敵の前で、宴席を設けます(5節前半.参照、サムエル下4:4.9:7,13.創14:18-20.ネヘミヤ4:17)。主はわたしたちの頭に油を塗り、わたしたちの杯は満ちあふれています(詩23:5後半.ヘブル1:9.Ⅰコリント10:16前半,21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの命の牧養を感謝します。段階ごとにあなたの命の牧養は豊かになり、わたしたちにキリストをさらに深く、高く享受させてくださることを感謝します。主よ、わたしたちが神の家の中で、生涯にわたって三一の神を享受することができますように。

 

 

わたしたちは日々いつまでもエホバの家に住みます

 

 第三段階は、死の影の谷を通して、復活した霊なるキリストの臨在を経験する段階です(詩23:4)。たとえ死の影の谷を歩いても、わたしたちは災いを恐れません。なぜなら、霊なるキリストがわたしたちと共におられるからです(Ⅱテモテ4:22)。…… わたしたちが死の影の谷を歩いているとき、彼の臨在はわたしたちにとって慰め、救い、支える力です。…… 第四段階は、復活したキリストのさらに深くさらに高い享受です(詩23:5)。主はわたしたちの前に、わたしたちの敵の前で宴席、祝宴を設けられます(Ⅰコリント10:21)。主の宴席は祝宴です。毎主日、わたしたちは主の宴席に来て祝宴にあずかるとき、それは常にわたしたちの敵の前でです。…… 

 

  詩篇第23篇6節は第五段階について語っており、それはエホバの家で神聖な良きものと慈愛を生涯にわたって享受することです。……確かに、わたしたちの命の日の限り(現在の時代に)、良きものと慈愛がわたしたちを追いかけて来ます(キリストの恵みと神の愛はわたしたちと共にあります。(Ⅱコリント13:14)。最終的に、この享受はわたしたちを神の家へと導き入れます。わたしたちは日々いつまでも(現在の時代、来たるべき時代、永遠において)、エホバの家(召会と新エルサレム―Ⅰテモテ3:15-16、啓21:2-3、22)に住みます。(「詩篇ライフスタディ(1)」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第10日

(年二回の訓練(7月) 第2週2日)

 

主イエスはわたしたちの牧者です

 

詩23:1-3

エホバはわたしの牧者であって、わたしには欠けるものがありません。彼はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺にわたしを伴われます。彼はわたしの魂を回復し、彼の御名のために、わたしを義の途に導かれます。

 

「主イエスはわたしたちの牧者であり、わたしたちは彼の羊です(マタイ9:36.イザヤ40:11.53:6.エゼキエル34:1-5,11-15)。彼はわたしたちを牧養する初期の段階において、わたしたちに緑の牧場としてのキリストと憩いの水辺としてのその霊を享受させます(詩23:1-2.Ⅰテモテ1:4.ピリピ1:19後半.ヨハネ21:15.Ⅰテサロニケ2:7.Ⅰコリント12:13後半)。  彼はわたしたちを牧養する第二段階において、わたしたちを義の途で復興し、造り変えます(詩23:3.ローマ12:2.ヨハネ7:38.ローマ8:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは牧者であって、牧養があることを感謝します。緑の牧場としてのキリストと、憩いの水辺としてのその霊を享受することができますように。キリストによって養われた後、義の途を歩き、思いが新しくされて、造り変えられていきますように。

 

 

キリストがわたしたちを牧養することに五つの段階があります

 

 [詩篇第23篇は]キリストがわたしたちを牧養することに五つの段階があることを告げています。第一段階は、牧場と憩いの水の段階です(2節)。牧場と水はわたしたちの養いのためであり、はぐくみと享受を含みます。第二段階は、義の途の段階です(3節)。義の途は、わたしたちの歩みを示します。わたしたちはキリストを享受し、キリストで満たされ、キリストによって養われた後、義の途を歩きます。……

 

 詩篇第23篇3節は言います、「彼はわたしの魂を回復し、彼の御名のために、わたしを義の途に導かれます」。これは……回復と造り変えという第二段階です。わたしたちの魂を回復するとは、わたしたちを復興することです。回復することはまた、新しくし造り変えることを含みます。これはローマ人への手紙第12章2節にある新約の教えに相当し、それは、わたしたちの魂の主導的な部分である思いが新しくされることによって、わたしたちが造り変えられる必要があると言っています。キリストは牧養することによって、わたしたちの魂を回復します(復興し造り変えます)。(「詩篇ライフスタディ(1)」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第9日

(年二回の訓練(7月) 第2週1日)

 

主の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる

 

マタイ9:20-22

すると見よ、十二年間も出血に苦しんでいる女が後ろから近づいて、彼の衣の房に触った.「彼の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる」と、心の内で言っていたからである。イエスは振り向き、彼女を見て言われた、「娘よ、元気を出しなさい.あなたの信仰があなたをいやしたのです」。するとその時から、その女はいやされた。

 

「キリストは、その行為が天的に支配されている(彼の衣の房)方として啓示されています(マタイ9:20-22)。キリストの衣は彼の義なる行為を表徴し、房は天的な支配を表徴します。主イエスの人性の美徳には、いやす力がありました。ですから、病んでいる女が彼の衣の房に触れたとき、彼の美徳の力が彼女へと出て行き、彼女はいやされました」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主イエスの人性の美徳にあるいやす力を感謝します。主イエスよ、あなたはわたしたちの救いと享受のために、触れることができる方となられたことを感謝します。主よ、わたしたちが主を信じ、主を愛し、主に触れて、主のいやす力を経験し、享受することができますように。

 

 

主の衣の房に触れたこの女は、主イエスのいやす力により、信仰を通していやされました

 

 主の衣の房に触れることは、実は主の人性の中の主ご自身に触れることでした。主の人性の中には神が具体化されていました(コロサイ2:9)。そのように触れることによって、彼の神聖な力が、彼の人性の完全さを通して、彼に触れた者の中へと注入され、それは彼女のいやしとなりました。近づきがたい光の中に住んでおられる神が(Ⅰテモテ6:16)、キリストの中で、彼の人性を通して、彼女の救いと享受のために、触れることができるものとなりました。

 

 キリストは喜ばしい方として……彼の人性の美徳の美しさの中でいやす力を持つ方です。彼を信じ、彼を愛し、彼の言葉を読むわたしたちは、彼の人性の美徳によっていやされてきました。わたしたちは祈りの中で彼に触れれば触れるほど、ますますいやされます。…… この女は信仰を通していやされました。今日、わたしたちは信仰を通していやされますが、この信仰はわたしたちが彼を見つめる時、キリストの魅力によってわたしたちの中へと注入されます。(「新約の結論(16)」、メッセージ269)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第7日

(年二回の訓練(7月) 第1週6日)

 

新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れます

 

マタイ9:17

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、皮袋は裂け、ぶどう酒は流れ出て、皮袋は駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れる.そうすれば、両方とも保たれる。

 

Ⅰコリント12:12

それは、体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべての肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。

 

「キリストはわたしたちの新しいぶどう酒であり、新鮮な皮袋に入れられます(マタイ9:17)。新鮮な皮袋は、新しいぶどう酒の容器としての諸地方召会の召会生活を表徴します。その新しいぶどう酒は、わき立たせる命であるキリストご自身です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。新しいぶどう酒と、新鮮な皮袋のビジョンを感謝します。主よ、わたしたちが地方召会の召会生活の中で、新しいぶどう酒としてのキリストによって活気づけられ、強められますように。主よ、わたしたちが、新しい皮袋としての召会生活を経験し享受することができますように。

 

 

団体のキリストは新鮮な皮袋であり、キリストを伴う召会生活です

 

 新鮮な皮袋は、新しいぶどう酒の容器としての地方召会の召会生活を表徴します。その新しいぶどう酒は、わき立たせる命であるキリストご自身です。王国の民は、召会の中へと建造し込まれ(16:18)、召会は、彼らがその中で生活している諸地方召会を通して表現されます(18:15-20)。彼らは再生された人たちであり、キリストのからだを構成し、召会となります(ローマ12:5.エペソ1:22-23)。キリストの豊満であるこのキリストのからだは、「あのキリスト」(Ⅰコリント12:12)とも呼ばれます。これは団体のキリストです。

 

 個人のキリストは新しいぶどう酒であり、内側でわき立たせる命です。そして団体のキリストは新鮮な皮袋であり、新しいぶどう酒を保つ外側の容器です。王国の民にとって、断食するとか、他の宗教的実行の事柄ではなく、内容としてのキリストを伴う召会生活です。…… 召会はキリストで満たされており、キリストで構成されています。……召会生活を享受している人々は、召会の人々です。召会の人々の間で、新しい衣、新しいぶどう酒、新しい皮袋がすべて回復されました。わたしたちは団体的にわたしたちの召会生活としてのキリストを持っています。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第28編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第6日

(年二回の訓練(7月) 第1週5日)

 

主の死と復活を通して、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられました

 

マタイ9:16

まただれも、縮ませていない布切れを古い衣に継ぎ当てはしない.なぜなら、それはその衣を引き裂き、破れはもっとひどくなるからである。

 

ルカ5:36

そして、イエスはまた一つのたとえを彼らに語られた.「だれも布切れを新しい衣から引き裂いて、古い衣に継ぎ当てはしない.そんなことをしたら、新しい衣を引き裂くことになり、また、その新しいものから取った布切れも、古い衣に合わない」。

 

「キリストは縮ませていない布切れ、またわたしたちの新しい衣服です(マタイ9:16)。キリストはまず、新しい衣を仕立てるための縮ませていない布切れでした。次に彼の死と復活を通して、彼は神の御前でわたしたちの義として、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられました。それは、わたしたちが神によって義とされ、神に受け入れられるためです(ルカ15:22.ガラテヤ3:27.Ⅰコリント1:30.詩45:13-14.啓19:8.エレミヤ2:32)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはわたしたちの義として、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられたことを感謝します。わたしたちが命と光の中でこの事を見て経験することができますように。 

 

 

新しい衣はまた婚宴の祝宴に参加する資格を与えます

 

 ルカによる福音書第5章36節の記事は、マタイによる福音書第9章16節のといくらか異なっています。……マタイは「布切れ」と言い、ルカは「衣」と言っていることに注意してください。主イエスはご自身を縮ませていない布切れにたとえられました。これは、肉体と成ることと十字架の間に彼が何であるかを示します。この期間、彼は縮ませていない布切れ、まださらされていない、処理されていない新しい布切れでした。彼の死と復活を通して、この「新しい布切れ」は処理され、「新しい衣」に仕立てられました。

 

 主の意図は、ご自身を縮ませていない布切れとしてではなく、完全な、仕上がった衣、わたしたちが義として着て神の御前に義とされることができる衣として与えられることでした。彼は死と復活の後、わたしたちが着て彼の婚宴に出席することができる仕上がった衣とされました。ですから、彼は花婿だけでなく、わたしたちに彼の婚宴の祝宴に参加する資格を与える婚宴の衣でもあります。わたしたちは罪人また取税人として、新しい衣を着せられ、花婿の臨在に値する者とされる必要があります。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第28編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第5日

(年二回の訓練(7月) 第1週4日)

 

キリストはわたしたちの花婿です

 

マタイ9:15

イエスは彼らに言われた、「花婿と付き添いの友が一緒にいる時に、付き添いの友は悲しむことができようか? しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.その時、彼らは断食する」。

 

25:1

その時、天の王国は、十人の処女が自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くようなものである。

 

「キリストはわたしたちの花婿です(マタイ9:14-15)。医者も花婿も喜ばしい人です。王なる救い主はまず彼に従う者たちをいやし、次に彼らを花婿の付き添いの友にしました。最終的に、彼は彼らを彼の花嫁とします」。

 

 主イエスよあなたを愛します。キリストはわたしたちの花婿であることを感謝します。主よ、わたしたちが自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くことができますように。わたしたちがキリストの豊富を持って美しくされて、キリストの花嫁となることができますように。

 

 

花婿としてのキリストは、 彼の臨在の中で生きることを享受するためです

 

 医者も花婿も喜ばしい人です。わたしは主の知恵を高く評価します。パリサイ人に関する場合、彼はご自身を医者にたとえられました[マタイ9:12]。今やヨハネの弟子たちの場合、主はご自身を婚宴の花婿にたとえておられます[15節]。……それは花婿と一緒にいる喜ばしい時ですが、花婿が取り去られる時、彼らは断食するでしょう。……主が地上で務めをしておられた過度期に、彼の弟子たちは付き添いの友でした。やがて彼らは花嫁になります(ヨハネ3:29.啓19:7)。王なる救い主が弟子たちから天へ取り去られた時、花婿は付き添いの友から取り去られました(使徒1:11)。この後、彼らは断食しました(13:2-3.14:23)。…… 

 

 今や王なる救い主キリストは、彼らのうちの何人かにこの事を思い起こさせられました。王なる救い主は、まず彼に従う者をいやし、次に彼らを付き添いの友とされました。最終的に、彼は彼らを彼の花嫁とされます。彼らは、彼らの命が回復されるために、医者としての主を捕らえる必要があるだけでなく、彼らが彼の臨在の中で生きることを享受するために、花婿としての主も捕らえるべきでした。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第4日

(年二回の訓練(7月) 第1週3日)

 

わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである

 

マタイ9:11-13

すると、パリサイ人がそれを見て、彼の弟子たちに言った、「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか?」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である。『わたしが望むのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味なのか、行って学んできなさい.わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 

「天的王国の王としての主イエスは、王国のために彼に従う人を召したとき、医者として務めをしました(マタイ9:9-13)。裁判官の裁きは義にしたがっていますが、医者のいやしはあわれみと恵みにしたがっています」。

 

   主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは義人を招くためではなく、罪人を招くために来られたことを感謝します。わたしたちをいやし、回復し、生かし、救って、わたしたちを再構成して、主の新しい天的市民となるようにしてくださることを感謝します。

 

 

医者のいやしはあわれみと恵みにしたがっています

 

 主はパリサイ人の質問によって与えられた機会をとらえて、彼が医者であるというとても甘い啓示を与えられました。……「丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である」[マタイ9:12]。主はパリサイ人に、これらの取税人や罪人は患者、病んでいる人であるから、彼らにとって主は裁判官ではなく、医者、いやし主であると告げておられます。王国のために従うよう人々を召すことで、天の王国の王は、裁判官としてではなく、医者として務めをされました。裁判官の裁きは義にしたがっていますが、医者のいやしはあわれみと恵みにしたがっています。……

 

 主が[わたしたちのような]あわれな人たちに裁判官として訪れたなら、すべての人は罪定めされ、拒絶されてしまい、だれも資格づけられず、選ばれず、召されて彼の天的王国の民となることはなかったでしょう。しかしながら、彼は医者として来て務めをし、彼らをいやし、回復し、生かし、救って、彼らが再構成されて彼の新しい天的市民となるようにされました。彼は彼らをもって、この腐敗した地に彼の天的王国を堅く立てることができます。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第3日

(年二回の訓練(7月) 第1週2日)

 

ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます

 

マタイ8:8-10

しかし、その百人隊長は答えて言った、「主よ、……ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。というのは、わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒たちがいて、そこで、わたしがこの者に『行け』と言えば、彼は行き、あの者に『来い』と言えば、彼は来ます……」。イエスはこれを聞くと、驚いて、従っている者たちに言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど大きな信仰を見たことがない」。

 

「百人隊長は、主が権威を持つ方であることを見ました。なぜなら、主は権威の下にある人であったからです(マタイ8:5-13)。百人隊長は、「わたしも権威の下にある者です」と言ったとき、主が権威の下にある人であることを認識しました。百人隊長は権威の下にある人であったので、彼の下にいる者たちに命令する権威を持っていました(9節前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが信仰の創始者、また完成者であることを感謝します。主よ、主が御父の権威の下にある人として人の生活をされたように、「わたしも権威の下にある者です. ただ一言お言を下さい」という信仰を生きることができますように。

  

 

百人隊長は、主が権威の下にある人であることを認識しました

 

 わたしたちが、美しさの中の、また美徳の卓越性の中の主を見つめる時、彼は生ける要素をわたしたちの中に注入されます。この注入された要素は、わたしたちの信仰、わたしたちの信じる能力となります。こういうわけで主イエスは、信仰の創始者、また完成者と呼ばれます(ヘブル12:2)。

 

 百人隊長は、そのような信仰を主イエスによって内側に注入していただきました。主は百人隊長の信仰に驚いて、言われました、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど大きな信仰を見たことがない」(マタイ8:10)。そして彼は百人隊長に言われました、「行きなさい。あなたの信じたように、あなたになるように」(13節)。(「新約の結論(16)」、メッセージ267)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第2日

(年二回の訓練(7月) 第1週1日)

 

キリストは大いなる光であって、暗やみの中に座っている者たちに輝きます

 

マタイ4:16

「暗やみの中に座っている民は、大いなる光を見た.そして、死の領域と死の影の中に座っている民に、光が昇った」。

 

ヨハネ8:12

こうして、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしは世の光である.わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」。

 

「キリストは大いなる光であって、暗やみの中に座っている者たちに輝き、死の領域と死の影の中に座っている者たちに昇ります(マタイ4:16.ヨハネ1:4-5.12:36.エペソ5:8.コロサイ1:12-13.Ⅱコリント4:6-7.使徒26:18)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。死の領域と死の影の中に座っていたわたしたちに、光が昇ったことを感謝します。この照らす光は、命の光としてのキリストご自身であることを感謝します。わたしたちの生活の中で、命の光としてのキリストを経験し、享受することができますように。

 

 

わたしたちに輝く大いなる光としてのキリストを経験し、享受することができます

 

 マタイによる福音書第4章16節は、わたしたちがキリストを、死の領域と死の影の中に座っている人々に昇り、暗やみの中に座っている民に輝く大いなる光として経験し、享受することができることを示しています。……この光は、実は命の光としてのキリストご自身であり(ヨハネ8:12)、死の影の中で輝きます。マタイによる福音書第4章16節で、主イエスは力や権威を誇示されませんでした。むしろ、彼は普通の人として海辺を歩かれました。しかし、彼はガリラヤの海の近くで人々と接触した時、暗やみの中で、また死の領域と死の影の中で輝いている大いなる光のように、彼らに輝きました。……

 

 わたしたちが主イエスの御名を呼び求め、彼を内側に受け入れた時、神聖な光がわたしたちの存在の中へと入って来ました。直ちに、わたしたちは内側に輝くものがあるという感覚を持ちました。このような輝きは、光としてのキリストの照らしです。わたしたちの内側の光としてのキリストの輝きは、わたしたちが神から生まれた神の子供たちであることの強い確証です。(「新約の結論(16)」、メッセージ267)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)