朝ごとの食物

1月の祈り15日

(10月長老責任者訓練 第6週第3日)

 

御言の中で主を享受し、毎日の新しい開始を持ちます

 

エペソ4:30

……神の聖霊を悲しませてはいけません.この方の中で、あなたがたは証印を押されて、贖いの日へと至るのです。

 

Ⅰテサロニケ5:16-19

いつも喜んでいなさい.絶えず祈りなさい.あらゆることで感謝しなさい.なぜなら、これがあなたがたに対する、キリスト・イエスにある神のみこころだからです。その霊を消してはいけません。

 

「わたしたちは毎日、朝早く御言の中で主を享受し、毎日の新しい開始を持つ必要があります(詩119:147-148)。わたしたちは、その霊を消すべきではありません。そうではなく、わたしたちはいつも喜び、絶えず祈り、あらゆることで感謝すべきです。なぜなら、これがわたしたちに対する、キリスト・イエスにある神のみこころだからです(Ⅰテサロニケ5:16-19)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが御言を享受し、御言で浸透されますように。時を贖い取って祈り、すべての時に、すべての事に対して主に感謝し、代価を払い、絶えず油を買うことができますように。

 

いつも喜んでいて.絶えず祈り、あらゆることで感謝します

 

 あなたは毎日、朝に主の御前に出て、言わなければなりません、「主よ、わたしがここにいることを、あなたに感謝します。わたしを満たしてください。わたしに浸透してください。わたしを浸してください。わたしは、あなたの中に、あなたをもって浸されたいのです」。……このような祈りを一日に三度しても多すぎることはありません。……わたしたちがこのように祈れば祈るほど、ますます良いのです。……

 

 あなたは何かを行なって、それが時間の無駄であると感じるなら、それをやめるほうが良いのです。その時間を用いて主と接触し、祈ってください。これが目を覚まして祈ることです。目を覚ましているとは、あなたの時間を過ぎ去らせず、あなたの時間を無駄にしないで、あらゆる時間を、油を買う機会とすることです。油を買うことは、わたしたちの時を贖い取る最高の方法です。なぜなら、一日は短いからです。 (「主の現在の動きを実行する方法」、第8章、第9章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り14日

(10月長老責任者訓練 第6週第2日)

 

わたしたちの霊に入って来られたその霊は、無代価で与えられます

 

エペソ5:17-19

こういうわけで愚かであってはなりません.かえって、何が主のみこころであるかを理解しなさい。また酒に酔ってはいけません.そこには放蕩があるからです.むしろ霊の中で満たされ、詩と詩歌と霊の歌とで語り合い、心から主に向かって歌い、朗詠しなさい。

 

「マタイ第25章9節の「買いなさい」という言葉は、代価が払われなければならないことを示します。聖霊の充満は、この世を放棄すること、自己を対処すること、すべてにまさって主を愛すること、キリストのゆえにすべての事を損失と勘定することなどの代価によって得られます。もしわたしたちが今日この代価を払わないなら、復活させられた後に払わなければなりません(参照、啓3:18.Ⅱコリント5:10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが主イエスを信じて再生された時、その霊が無代価で与えられたことを感謝します。今、浸透する霊がわたしたちの全存在、特に魂を満たすために代価を払い、金の油としてのその霊を買うことができますように。

 

浸透する霊がわたしたちの全存在、特に魂を満たすのには代価が必要です

 

 マタイによる福音書第25章9節は言います、「思慮深い者たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたのためには、おそらく十分でないでしょう.それよりも、売る者たちの所に行って、自分のために買いなさい』」。……わたしたちは多くのものを借りるかもしれませんが、聖霊の充満を借りることはできません。これは食べることに似ています。だれもあなたに代わって食べることはできません。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第64編)

 

 わたしたちが主の現在の動きに対して真剣であるなら、毎日、朝ごとにその霊で満たされなければなりません。わたしたちは自分の罪を告白する必要がありますが、また代価を払う必要があります。わたしたちの霊に入って来られたその霊は、無代価で与えられましたが、浸透する霊がわたしたちの全存在、特に魂を満たすのは、無代価ではありません。それは代価を払わなければならない、買わなければならないものです。罪人であるわたしたちが悔い改めて、罪を告白し、主イエスを信じた時、わたしたちは直ちに再生され、その霊は無代価で与えられました。しかし、毎日わたしたちは彼の満たし、彼の浸透に霊から魂を貫いていただくことを必要とします。わたしたちは代価を払う必要があります。(「主の現在の動きを実行する方法」、第7章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り13日

(10月長老責任者訓練 第6週第1日)

 

 命において目を覚ましており、奉仕において忠信である

 

処女は、命の面から見た信者たちを表徴します

 

マタイ25:1-4

その時、天の王国は、十人の処女が自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くようなものである。そのうちの五人は愚かで、五人は思慮深かった。愚かな者たちは、自分のともし火を持っていたが、油は持っていなかった.しかし、思慮深い者たちは、自分のともし火と共に、器に油を持っていた。

 

「わたしたちは命のために、油、神の霊、さらには彼の充満を必要とします。それによって、わたしたちは処女の生活をして、主の証しとなることができます(マタイ25:4,9-10)。五人の思慮深い処女は、ともし火に油があるだけでなく、器に油を持っています。器に油を持っているとは、彼女たちが神の霊の充満を持ち、彼女たちの魂に浸透させていることを表徴します(参照、Ⅰペテロ2:25.ヘブル13:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 愚かな者たちは、油をともし火の中に持っているだけで、余分の油を器に持っていませんでした。主よ、わたしたちをあわれんでください。あなたの霊をわたしたちの霊の中だけでなく、わたしたちの魂の中にも持つことができますように。

 

思慮深い処女は、ともし火に油があるだけでなく、器に油を持っていました

 

 処女は、命の面から見た信者たちを表徴します(Ⅱコリント11:2)。王国の民である信者たちは貞節な処女のようであり、暗い時代に主の証し(ともし火)を携え、主を迎えにこの世から出て行きます。このために彼女たちは、聖霊の内住だけでなく、聖霊の充満をも必要とします。…… 愚かな者が愚かであるのは、油をともし火の中に持っているだけで、余分の油を器に持っていなかったからです。再生する霊に加えて、彼女たちは充満する霊、余分の聖霊を持っていませんでした。

 

 人は神のために造られた器であり(ローマ9:21,23-24)、人の人格は彼の魂にあります。ですから、[マタイによる福音書第25章4節の]「器」は、信者たちの魂を表徴します。五人の思慮深い処女は、ともし火に油があるだけでなく、器に油を持っています。ともし火に油があるとは、彼女たちが神の霊を自分の霊に内住させていることを表徴します(ローマ8:9,16)。器に油を持っているとは、彼女たちが神の霊の充満を持ち、彼女たちの魂に浸透させていることを表徴します。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第64編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り11日

(10月長老責任者訓練 第4週第6日)

 

わたしたちは魂の命を失うというかぎを活用することを学びます

 

マタイ16:25

なぜなら、すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだすからである。

 

ヘブル12:2

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。

 

「わたしたちは魂の命を失うというかぎを活用することを学ぶ必要があります(マタイ16:25)。魂の命を救うとは、魂にその享受を得させることによって、自己を喜ばせることです。魂の命を失うとは、魂の享受を失うことです。主イエスは、この時代に彼の魂の享受を失いました。それは、彼が来たるべき時代に彼の魂の命を見いだすためでした(ヨハネ10:11.イザヤ53:12)。わたしたちも同じことを行なわなければなりません(ヨハネ12:24-26)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを賛美します。主よ、あなたのようにわたしたちは、この時代に魂の享受を失うことができますように。

 

この時代に自分の魂の命を失うなら、来たるべき時代にそれを見いだします

 

 魂を失うことは、魂の享受を失うことを意味します。また魂を得ることは、魂の享受を持つことを意味します。魂を失うことに関して、主は苦難について語られませんでした。……一見して魂を失うのは苦難であるようですが、実はそれは真の喜びです。ある姉妹が彼女の夫を赦すことによって自分の魂を失うなら、それは彼女にとっても彼女の家族にとっても喜びです。それは正常な家庭生活を建て上げるという結果となります。召会の建造についても原則は同じです。

 

 人の霊の中へと神を受け入れ、魂を通して神を表現することは、人の喜びまた娯楽であるべきです(参照、ネヘミヤ8:10.ローマ14:17)。なぜなら、わたしたちは結果として、召会の建造を見るからです。もしあなたが進んで、実際的な方法で自分の魂を失うなら、他の人はあなたによって養われ、あなたを通して建造されます。これは苦難ではありません。それは喜びです。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り10日

(10月長老責任者訓練 第4週第5日)

 

わたしたちは十字架を負うというかぎを活用することを学びます

 

マタイ26:39

……彼は……ひれ伏して、祈って言われた、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください.しかし、わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」。

 

エペソ4:3

平和の結合するきずなの中で、その霊の一を保つことを熱心に努めなさい。

 

「わたしたちは十字架を負うというかぎを活用することを学ぶ必要があります(マタイ16:24)。十字架を負うことはただ、神のみこころを負うことを意味します。十字架は神のみこころです(26:39.ヨハネ18:11)。主イエスは犯罪者のように十字架に行くことを強いられたのではありません。主は進んで十字架に行きました。なぜなら、十字架は神のみこころであったからです(マタイ26:39)。主イエスが進んで十字架につけられたのは、彼の死を通して、彼の命が解き放たれ、召会を生み出し建造するためでした(ヨハネ12:24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主は進んで十字架に行かれました。十字架は神のみこころであったからです。主よ、わたしたちを進んで十字架を担う者としてください。わたしたちが命の豊富を享受することができますように。

 

主の十字架は神のみこころであったので、主は進んで十字架に行かれました

 

 主は強いられて、十字架の苦難を受けたのではありませんでした。彼はそれを選ばれました。このことは彼自身が選ばれたことでした。……彼の十字架は神のみこころであったので、彼は進んで十字架に行かれました。このゆえに、彼の十字架は神のみこころを成就するためでした。……彼が進んで十字架につけられたのは、彼の死を通して彼の命が解き放たれ、召会を生み出すためでした。

 

 主は十字架にいた時、大いなる苦難を受けられました。しかしその苦難は彼に強いられたものではありませんでした。主はそれを進んで取られました。マタイによる福音書第26章39節で、主は御父に祈られました、「わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」。同時に彼はまた、「あなたのみこころがなりますように」と祈られました(42節)。主は進んで十字架を負い、十字架に行き、神のみこころが成し遂げられるまで十字架上にとどまっておられました。これが聖書において最初に記述された十字架の意義です。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り9日

(2024年10月長老責任者訓練 第4週第4日)

 

自己を否むというかぎを活用するなら、感情を害されることはあり得ません

 

ルカ23:34

その時、イエスは言われた、「父よ、彼らをお赦しください.彼らは自分が何をしているのか、わからないのですから」。……

 

Ⅱコリント12:15

しかし、わたしはあなたがたの魂のために、大いに喜んで費やし、自分自身を使い尽くしましょう。わたしはあなたがたを、あふれるばかりに愛すれば愛するほど、ますます愛されなくなるのでしょうか?

 

以下は、自己のいくつかの表現です(参照、詩歌628番、5節と6節)

 

 自己には、野心、高ぶり、自己を高く上げることがあります(マタイ20:20-28.Ⅰペテロ5:5)。自己には、自分の義、自己義認があり、人を暴露し、批判し、罪定めします(マタイ9:10-13.ルカ18:9-14)。自己には、内省と自分を軽んじることがあります(雅2:8-9.Ⅰコリント12:15-16)。わたしたちは自己の中にいるとき、召会、導いている人たち、聖徒たちによって感情を害されることがあり得ます(マタイ6:14-15.18:21-35)。自己には、失望と落胆、自己愛、自己保身、自己追求、自己憐憫、つぶやきと議論、天然の味わいと好みに基づいた天然の愛情(友情)、意見に固執し、異議を唱えるという事柄があります(ヨハネ11:21,23-28,39)。わたしたちは自己の中にいるとき、個人主義的で独立しています(Ⅰコリ16:12)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちは自分の義を主張して、人を批判し、罪定めしてしまい、自己に満ちている者です。自己を否むというかぎを活用して、あらゆる状況において自己を閉じ込めることを学ぶことができますように。

 

自己が閉じ込められているなら、召会は建造されます

 

 わたしたちが自己を否むというかぎを活用して自己を閉じ込めるなら、感情を害されることはあり得ません。感情を害されない者は幸いです(参照、ルカ23:34.使徒7:60)。もしわたしたちが感情を害されることがあり得るなら、それはわたしたちが自己に満ちていることの証拠です。わたしの自己が閉じ込められているなら、あなたがわたしに何を行なっても、あるいはわたしをどのように扱っても、わたしは感情を害されることはないでしょう(ルカ23:34.使徒7:60)。わたしたちは自己を否むというかぎを活用して、あらゆる状況において自己を閉じ込めることを学ぶ必要があります。…… 自己が閉じ込められているなら、召会は建造されます。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り8日

(2024年10月長老責任者訓練 第4週3日)

 

自己は、神からの独立を宣言する魂です

 

ルカ9:23

そしてイエスは彼らすべてに言われた、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、日ごとに自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい」。

 

「自己は、神からの独立を宣言する魂です。主が重んじるのは、わたしたちが何を行なうかではありません。そうではなく、主が重んじるのは、わたしたちが彼に依り頼むことです(マタイ7:21-23.参照、ヨシュア9:14)。からだの敵は自己です。自己は独立しているものであるので、自己はからだを建造することにとって最大の問題であり、最大の妨げまた反対です。わたしたちは神に依り頼むだけでなく、からだにも、兄弟姉妹にも依り頼むべきです(出17:11-13.使徒9:25.Ⅱコリント11:33)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主と召会を感謝します。自己はからだを建造することにとって最大の問題であるという認識を与えてください。わたしたちは神に依り頼むだけでなく、からだにも、兄弟姉妹にも依り頼むことができますように。からだの肢体たちと正しくかかわって、キリストのからだが建造されますように。

 

わたしたちは神に依り頼むだけでなく、兄弟姉妹にも依り頼みます

 

 自己は独立したものですから、それはからだを建造することにとって最大の問題です。わたしたちは神に依り頼むだけでなく、からだにも、兄弟姉妹にも依り頼むべきです。兄弟姉妹から独立する時はいつでも、わたしたちは自己の中におり、独立した魂の中にいます。今日、わたしたちがからだから独立することは、神から独立することに等しいです。これは教理の事柄ではなく、経験の事柄です。あなたの経験を調べるなら、あなたが兄弟姉妹から独立した時、神からも独立しているという感覚を持ったことに気づくでしょう。同じように、あなたが兄弟姉妹から孤立した時、あなたはまた神から孤立しているという感覚を持ちました。

 

 わたしたちがからだに依り頼むなら、主にも依り頼むでしょう。……あなたが主の臨在を持たないのは、からだから孤立しているからであり、からだの肢体たちと正しくかかわっていないからです。建造されるように、からだに対して正しくあるように努めなさい。もしからだに対して正しく、からだの中で建造されているなら、あなたは確かに主の臨在を感じるでしょう。(リー全集、1965年、第3巻(上)、「天のビジョン」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り7日

(2024年10月長老責任者訓練 第4週2日)

 

自己を否むというかぎを活用して、ハデス[陰府]の門を閉じます

 

マタイ16:19,24

わたしはあなたに天の王国のかぎを与える.あなたが地上で縛るものはすべて、すでに天で縛られていたものであり、あなたが地上で解くものはすべて、すでに天で解かれていたものである。…… それから、イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい」。

 

「召会の建造は、三つのかぎを活用することを通して、ハデス[陰府]の門を閉じることにかかっています(マタイ16:24-26)。わたしたちは自己を否むというかぎを活用することを学ぶ必要があります(24節)。肉は、創造された体が罪(サタンの性質)によって腐敗させられたものです(ローマ6:12,14.7:8,11,17,20)。自己は、創造された魂にサタン的な思い、サタンの思いを加えたものです。サタンの思い、思想が人の魂の中へと注入されたとき、人の魂は自己、すなわちサタンの具体化となりました(創3:1-6.マタイ16:22-23)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神から独立するときはいつでも、魂はすぐに自己となります。主よ、わたしたちが自己を否むというかぎを活用して、ハデス[陰府]の門を閉じることができますように。主よ、わたしたちがいつも、あらゆる事で神に依り頼むことができますように。

 

自己は魂の具体化であって、それは思いを通して表現されます

 

 歴史を通じて、召会を破壊したのは、……おもに自己によってでした。マルチン・ルターはかつて、自分は法王を恐れるが、さらに力強い法王を、すなわち、彼自身の心の内側の自己をさらに恐れると言いました。……自己は魂の具体化であって、それは思いを通して表現されます。こういうわけで、自己、魂、思いは三・一です。この三つの背後にサタンがおり、サタンは自己を操作して召会生活を破壊しています。わたしたちはみな、自分自身のためにこの言葉に注意する必要があります。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第3編)

 

 自己の起源は、サタンが彼の思想を人の思いの中へと注入したことです。……魂が神に依り頼ませず、神から独立するときはいつでも、魂はすぐに自己となります。これは、わたしたちが神に依り頼まず、自分自身で何かをする時はいつでも、わたしたちは自己の中にいるという意味です。神は人が常に神に依り頼むように、人を魂として創造されました。人は魂です(創2:7)。そして人は魂として、あらゆる事で神に依り頼むべきです。(リー全集、1965年、第3巻(上)、「天のビジョン」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り6日

(2024年10月長老責任者訓練 第4週1日)

 

召会を建造するための王国の訓練  

 

マタイ16:18,21

そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない。…… この時からイエスは弟子たちに、ご自分が必ずエルサレムへ行って、長老、祭司長、聖書学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活させられることを、示し始められた。

 

「マタイ第16章は召会を建造する道を啓示しており、また建造の敵も啓示しています。キリスト、生ける神の子は、岩としてのご自身の上に、ペテロのような造り変えられた人である石をもって、召会を建造します(マタイ16:16-18)。しかし、ハデス[陰府]の門、すなわちサタンの暗やみの権威あるいは力は、召会を攻撃して、主が召会を建造することを妨げます(18節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。召会はキリストの死と復活を通して生み出されました。主よ、わたしたち自身が十字架につけられ復活させられて、すべての事で、かしらであるキリストの中へと成長することができますように。

 

召会を建造する道は、十字架につけられ復活させられることです

 

 召会は実際的な方法において、どのようにして建造されることができるのでしょうか? 答えは、マタイによる福音書第16章21節から26節に見いだされます。……キリストは十字架につけられ、復活させられなかったなら、召会を建造することができませんでした。……21節は、召会を建造する道が、死と復活を通してであることを示しています。山上で主イエスはかたちが変わりました。しかしながら、このかたちが変わったことは一時的でした。

 

 死と復活を通して、キリストは永久にかたちが変わり、……かたちが変わることの領域の中へと入られました。召会が存在するのは、このかたちが変わることの領域の中です。召会は天然の命の中で、あるいは肉的な人々と共に存在することはできません。……わたしたちは彼が否まれたように自分自身を否み、彼が十字架につけられたように自分自身を十字架につけなければならないということです。このことなしに、召会が建造されることはあり得ません。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第4、3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り4日

(2024年10月長老責任者訓練 第1週6日)

 

神の王国は神聖な命の領域であり、神聖な種族の領域でもあります

 

ヨハネ1:12-13

しかし、すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた.これらの人は血からではなく、肉の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生まれたのである。

 

「神の王国は神聖な命の領域、神聖な統治の領域であるだけでなく、神聖な種族の領域でもあります。その中に、すべての神聖なものがあります(ヨハネ3:3,5.18:36)。ヨハネ第3章において、神の王国は、神の統治を指す以上に、神の種族を指しています。神は人と成って、人の種族の中へと入りました。人は、神格においてではなく、命と性質において神となり、神聖な種族の中へと入ります(ヨハネ1:1,12-14.Ⅱペテロ1:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちは再生によって神から生まれ、神聖な命と性質を持つ神・人であることを感謝します。わたしたちが、神聖な種族の領域である神の王国の中で主を食べ飲みし、主のかたちに同形化されますように。

 

わたしたちは神の王国における神・人たちです

 

 神聖な領域、すなわち神聖な種族の領域の中へと入るために、わたしたちは神から生まれて、神聖な性質と命を持つ必要があります。……人が神のかたちに、神の姿にしたがって創造されたことは、人が神の種類、神の種族に創造されたことを示します。創世記第1章は、それぞれの生き物はその種類にしたがって創造されたと言っています。しかし神は人を、人の種類にしたがってではなく、神のかたちに、神の姿にしたがって創造し、神の種類とならせました。

 

 信者たちは再生によって神から生まれ、神格においてではなく命と性質において神の子供たちとなっています(ヨハネ1:12-13)。彼らはアダム以上に神の種類です。アダムは神の外側の現れだけを持っていて、内側の実際、神聖な命を持っていませんでした。わたしたちは神聖な命の実際を内側に持っており、全存在が造り変えられて、主のかたちに同形化されつつあります。すべての神の子供たちが神聖な種族の神聖な領域の中にいると言うのは、論理的なことです。……  わたしたち、神から生まれる者はみな神です。しかし発言では、神学上の誤解を引き起こさないために、わたしたちは神聖な種族における、すなわち、神の王国における神・人たちであると言うほうが良いのです。(リー全集、1994年ー1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り3日

(2024年10月長老責任者訓練 第1週5日)

 

信者たちの中の神聖な命は、キリストのからだの命です

 

コロサイ3:4

わたしたちの命なるキリストが現される時、あなたがたも、彼と共に栄光のうちに現されます。

 

コロサイ2:19

かしらに結び付いて……この方から、からだ全体は、節と筋によって豊かに供給され、結合され、神の増し加わりによって成長するのです。

 

「信者たちは御子の中へと信じることによって、神聖な命を受け入れます。御子の中に神聖な命があり、彼ご自身が命です。信者たちは神から生まれることによって、その霊から生まれます(ヨハネ3:6)。信者たちの中の神聖な命は、キリストのからだの命です。神聖な命において成長することは、神の要素が増し加わること、キリストの身の丈が増し加わること、聖霊が拡張することです(エペソ4:15-16)。また、神聖な命において成長することは、人の要素が減少すること、天然の命が砕かれること、魂のあらゆる部分が征服されることです(Ⅰペテロ2:2.Ⅱペテロ3:18.コロサイ2:19)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの中の神聖な命は、キリストのからだの命であることを感謝します。主よ、わたしたちの内側で成長してください。神の要素が増し加わり、神聖な命において成長することができますように。

 

 

わたしたちの内側でキリストが成長することが王国の到来です

 

 「あなたの王国が来ますように」と祈るのは良いのですが、「主よ、わたしの内側で成長してください」と祈るのはさらに実際的です。「あなたの王国が来ますように」というのは、宗教的な決まり文句にすぎないかもしれません。千九百年以上もの間、何百万人ものクリスチャンによってこの祈りが繰り返されてきましたが、まだ王国は来ていません。

 

 主がその祈りに答えるのは難しくありませんが、わたしたちが彼にわたしたちの内側で成長していただくことは難しいのです。……霊の中で貧しく、心が純粋であることによって、わたしたちは主にわたしたちの内側で成長する地位を与えることができます。またこの成長が王国の真の到来となります。わたしたちが彼にわたしたちの内側で早く成長していただけばいただくほど、わたしたちは王国の到来を早めます。(リー全集、1972年、第2巻(上)、「王国」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り2日

(2024年10月長老責任者訓練 第1週4日)

 

わたしたちは命の感覚に従い、神聖な分与の中で通常の生活をします

 

ルカ1:79

暗やみの中に、また死の影の中に座っている者に輝き、わたしたちの足を平安の道へと導きます。

 

エペソ4:18-19

彼らは、理解することで暗くなり、彼らの中にある無知のゆえに、その心のかたくなさのゆえに、神の命から遠ざけられ、感覚を失ってしまい、……

 

「命の感覚は、わたしたちが天然の命の中に生きているのか、あるいは神聖な命の中に生きているのか、またわたしたちが肉の中に生きているのか、あるいは霊の中に生きているのかを知らせます(ローマ8:6)。わたしたちは接ぎ木された命を生きるとき、正しいか間違っているかの原則にしたがって生きるのではなく、命の原則にしたがって生きるべきです(創2:9,16-17.Ⅱコリント11:2-3)」。 

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの内側には命の感覚があることを感謝します。主よ、わたしたちが正しいか間違っているかにしたがって生きるのではなく、命の原則にしたがって生きることができますように。わたしたちが天然の命の中で生きないで、神聖な命の中で生きることができますように。

 

 

わたしたちは、神聖な命、神聖な命の法則、聖霊、キリスト、神を持っています

 

 未信者たちはどれほど道徳的であったとしても、ただ人の良心を基準とするだけであり、これは人の堕落によってひどく損なわれてきました。…… わたしたち信者は創造された良心を持っているだけでなく、更新された良心をも持っています。わたしたちの霊の一部分である良心は(ローマ9:1.参照、8:16)、わたしたちの霊の再生を通して更新されています。この更新された良心に加えて、わたしたちは、神聖な命、神聖な命の法則、聖霊、キリスト、神というこれら五つの偉大なものを持っています。こういうわけで、未信者の創造された良心と、神聖な命としての三一の神が内住しておられる信者の更新された良心は比較になりません。……

 

 ですから、命の感覚の機能に関して二つの面があります。第一の面は、あなたが神聖な命の中で生きているのかどうかを知らせることであり、第二の面は、あなたが霊の中で生きているのかどうかを知らせることです。消極的に言うと、それはあなたが天然の命の中で、天然の人として生きているのかどうか、また肉の中で生きているのかどうかを知らせます。(リー全集、1979年、第1巻(上)、「命についての基本的学課」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り1日

(2024年10月長老責任者訓練 第1週3日)

 

神の王国は神聖な命の領域です――ヨハネ3:3,5,15-16.18:36.1:12-13

 

ローマ8:2,6

なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。…… 6  肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

 

「命の感覚は、わたしたちの内側の神聖な命の感覚、知覚です(ローマ8:6.エペソ4:18-19)。命の感覚の源は、神聖な命、命の法則、聖霊、わたしたちの中に住んでいるキリスト、わたしたちの内で活動する神です(ローマ8:2,10-11.ピリピ2:13)。命の感覚は、死の感覚とも、命と平安の感覚とも関係があります(ローマ8:6.イザヤ26:3)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。命の霊の法則が、罪と死の法則から、わたしたちを解放したことを感謝します。主よ、毎日の生活の中で思いを霊に付けて、命と平安を享受することができますように。

 

 

消極的な面での命の感覚と、積極的な面での命の感覚があります

 

 消極的な面での命の感覚は、死の感覚であり、一種の消極的な感覚です。……ローマ人への手紙第8章6節は、完全に感覚についての節です。なぜなら、それは肉に付けた思いは死であると言っているからです。……あなたは思いを肉に付けるとき、死の感覚を持ちます。あなたは死がそこにあるのを感じます。死の感覚は、消極的な面で、弱さ、むなしさ、不安、落ち着かないこと、意気消沈、渇き、暗やみ、痛みなどの内なる感覚です(6節前半)。……

 

 積極的な面で、命の感覚は機能して、以下の積極的な事柄の知覚をわたしたちに与えます。すなわち強さ、満足、平安、安息、解放、生き生きしていること、潤い、明るさ、慰めなどです(6節後半)。…… わたしたちは渇きに相対して潤いの感覚を、暗やみに相対して明るさの感覚を、痛みに相対して慰めの感覚を持ちます。これらすべては、わたしたちが命の感覚の機能から持つ積極的な感覚です。わたしたちはこのような感覚を持つとき、これは命の感覚の働きであることを認識しなければなりません。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)